チョコに視線が集まる日

誰だって経験があるだろう。ボケーッと他愛のない考え事をしながら歩き、けつまずいたり自転車にチリチリ鳴らされたり。我に返って「ああ」と思う。「いかんいかん」とも思う。が同時に「他愛もない考え事をしている時の集中力は侮りがたい」とも思う。なにせ、自転車が目に入らぬ程なのだ。

集中力というのはとかく重要視される能力で、おそらく通知票でもかなり頻出する単語であろう。曰く「授業中に集中力が無い」「うわの空だ」。しかし彼らは、うわの空の向こうを恐るべき集中力をもって見つめている。でもやっぱり、はたから見ると上の空。これまた悲しき事実。そして、うわの空を見ている人間は滑稽だ。

つまるところ、集中力を発揮している人間って、案外と滑稽に見える。まるで周りが見えていないようであり、独り相撲をしてみたり、カラ回りしてみたり。そして恐らく、一年でもっとも中高生がそうなるであろう日がやってくる。バレンタインデーというヤツだ。
少なくとも僕らの時代に関して言うと、2月14日ともなれば男子は全員カラ回る。もう教室中からブンブン音が聞こえるくらいカラ回る。彼らは全神経をバレンタインデーに集中しているのだ。

休み時間になると女子を横目で見ながら連れだって教室を離れ、カバンや机にチョコを入れるチャンスを提供し、努めて冷静なふりをして、内心は心臓を高鳴らせながら下駄箱をあける。まったく滑稽であるが、本人達はその集中力からか気づかない。

中学生だった僕は例によってモテない陣営の一員で、ソワソワしつつも、この級友のカラ回りぶりをからかいたく、同じくモテない金子君とある計画を立てて包装紙を家から持参した。これに給食で出た「塩ジャケ」をくるみ、山田のカバンに入れておいたら面白かろうという大計画である。

案の定、綺麗に包装された塩ジャケをカバンに認めた山田は、冷静を装えぬほど色めきだち、その様子を見た僕と金子は肩を震わしながら必死に笑いをこらえた。おそらく山田は帰ってすぐにカバンを開けて包装を取り出すだろう。カバンが生臭い事など気づかない。「さあ誰だ?どんなチョコだ?」とばかりに包装を解く。飛び出る塩ジャケ。広がる生臭さ。死ぬ。笑い死ぬ。

ひとしきり想像笑いして落ち着くと、なんだか空しくなってくる。なんだろう、この根性の悪さは。金子を見ると、やはりどこか虚ろな表情だ。そして両名とも、やはりチョコをもらえないのであった。

その日の帰り道、いつもどおりに中之口川の河原に降り立った僕と金子は並んで座った。抜け駆けしてチョコをもらっていないか、お互いのカバンをチェックしあったあと、それぞれが空しさを噛みしめた。「すまん、山田」とも思ったが、同時にやっぱり笑った。

空しさを紛らわす為か、無意味に川面に石を投げると、その石が水面で4回ほどジャンプする。こうなると色めきだつ中学生であった僕らは、まるでバレンタインの空しさを忘れるように一心不乱に石を拾っては投げ、投げては拾い、川面でジャンプする回数を競い合った。

僕も手当たり次第に平べったい石をつかんでは、投げた。石の争奪戦、早いもの勝ちのごとき様相を呈していたその瞬間、僕がダッシュでつかんだ石が「グニュッ」という感触とともに指の間でつぶれた。

犬のフンをつかんでしまったのである。

なんたる失態であろうか。集中するあまり、石と犬のフンの区別がつかぬとは。ゆっくり指のにおいをかいでみると、目が出るほど臭い。塩ジャケより臭い。それを見た金子は文字通り腹を抱えて笑い転げている。

がぜん頭にきた僕は、また犬のフンをむんずとつかむと、金子に向かって放り投げた。金子の顔から笑いが消え、ぎゃああという叫びと共に逃げ回る。僕は続けざまに犬のフンを空高く、いくつか同時に放ってやった。
夕日に輝く犬のフン。
金子はその放物線を描くフンを避け、最短ルートで安全な地点へと、最大限の集中で上を見ながら疾走した。

そして、見事に川に落ちて見せたのであった。

出会い頭の

ちょっとヘンな文章を書く機会があって、思った事。
何をいまさら僕みたいなモンがって話ですけど、男女の出会いを描くのって難しい。古今の戯作者は、そりゃあまあ悩んだと様々な文献に出ています。
「クラスが一緒」とか「たまたま」なんてのは、やっぱり劇的要素が少ないわけで、ドラマなんか見てると北川悦吏子なんていちいち工夫しています。(たいがい出会いから始まる脚本ばっか書いてるわけですが)
ありがちなのは「古本屋で一冊しかない写真集を同時に手に取る」なんての。ちょっとロマンティック過ぎる気がします。
現代だったら、むしろ「同じガンプラを手に取った」とか「ペットショップで同じチワワを奪い合った」とか、漫画喫茶でこっちが読みたい漫画なのに、それをテーブルに積み上げて昼寝してたとか、地下鉄の同じ改札を両方から入ろうとかち合ってケンカした、とかでしょうか。論点がずれてきたが、なぜだか僕はコウフンしてきた。
あの改札って、出口と入り口の両側に向けてOKの「→」が出てて、一瞬早く向かい側の人に切符入れられると、こっちが×になるのな。あれって屈辱だよね。エレベーターの中にいる人と目があったのに、扉閉められた的な。なんだか腹が立つ。
根本的に他人って腹が立つ存在なんだけど、いちいち喧嘩したりしない。でも、思い切って喧嘩してみたらどうだろう。喧嘩だろうと愛だろうと、共通するのは「強い思いをぶつける」という事。思いがぶつかり合うのが出会いなのではなかろうか。
要は、劇的出会いを作りたければ「強い思いをぶつける」状況を考えればいいわけだ。それが負の感情であろうとも。
「出会い」が無いと嘆く諸氏、それはあなたが「強い思い」を叩きつけていないからだ。一回してみるといい。みんながこっちを振り向いてくれる。
ただ、法には触れてくれるな。

布団の中は

我らが台東区も寒くなってきたので、昨日から羽毛布団を出した。
布団圧縮袋でぺたんこにしていたのが、出すと同時にじゃじゃじゃじゃーんとばかりに膨らむ様は、どこかウキウキしているようでもあり、ご主人を待ちかねてはしゃぐ飼い犬を見ているようでもあり、なんだか顔がほころんでしまう。
そのフカフカぶりにご満悦で寝入ったところ、案の定昼過ぎまで寝てしまい、さらに昼寝もするというすさまじさ。羽毛は子宮か。よくコタツを巻き貝のようにくっつけて歩きたいという人がいるが、僕は羽毛布団にくるまれて生活したい。
と夢想したが、よくよく考えてみると、ある。ダウンジャケットがそれだ。これ、羽毛布団にくるまれてるみたいなもんだ。世の中は便利なものである。夢想かと思ったら、あるではないか。
さっそく押し入れをゴソゴソと捜してみたが、どうやら実家に置いてきてしまっているらしい。さらに言うと、ダウンジャケットを買ったのって中学生の時だ。もう10年以上前の話ではないか。
当時はワークスタイルとかアウトドアスタイルが流行っていて、CARHARTTのペインターをはいたり、L.L.Beanのフリースを個人輸入で買ったりしていた。で、確かウールリッチのダウンジャケットを買ってあるはずなのだが、そういやここ10年見ていない。実家でタンスをまさぐった時にも見かけなかった。僕に憶えが無いので、きっと母親が見切りをつけて捨ててしまったのだ。
こういう「捨てられた」というか「始末してもらった」ものっていっぱいあるんだろうと思う。僕が忘れているだけで。
たまに見る古い写真のバックに写っているぬいぐるみだったり、エアガンだったり、またがっている自転車だったり。毎日顔を合わせていても、いつしか目にしなくなり、忘れ、「始末してもらう」。
ちょっと思い入れがあるものって、始末してもらわないと、一歩も前に進めなかったりする。ところが大いに思い入れのあるものだと、今ではまったく無意味になってしまっていても忘れられず、捨てられない、始末もしてくれない。これって、たいがい実は「忘れたい」ものだったりするから厄介だ。
まあ、その最たるものが初恋だったりする。上を向いて未来を夢想するふりをして、実は布団にもぐって過去を見てばかりいる。どっちも問題があり、どっちの先にも解決は無い。グルグル考えていると寝入ってしまうのは何故だろう。

webで日記を書くということ

僕は毎週欠かさず週刊SPA!を購読しているのだが、今週号に「下流階級ニュープアの研究」と題された特集が組まれていた。
ニュープア」という単語をご存じの方は少ないと思う。なぜなら、SPA!が勝手に作った単語だからだ。SPA!は何かにつけ、新しい単語を作るのが好きだ。そしてことごとく浸透しないという得難い技を持っている。例えば毎号のように使われる「SPA!世代」という単語。これはSPA!がターゲットとしている団塊ジュニア世代(30代前半)らしく、幾十年と紙面で使ってきているが「SPA!世代」という単語が日常会話に出てきた事がおありだろうか?
また、クラブに通い詰め、踊り、感性とセンスを第一に考えたアホな若者を「クラバカ」と名付けたが定着せず、倉田真由美は「だめんず・うぉ〜か〜」という漫画を連載していてそれなりに売れているが、ついぞ「だめんず・うぉ〜か〜」という単語が流行る事は無かった。「アダルト・チルドレン」が常識となり「だめんず・うぉ〜か〜」が一瞥すらもらえない状況。この辺にSPA!がいま立たされている位置があぶり出されており、そんなSPA!のノーコンピッチャーぶりが僕は大好きだ。
前置きが長くなったが、ニュープアである。
SPA!の定義では、ニュープアとは「三度のメシは食べられても、生活レベルは中級以下。最下層予備軍」となっており、まさに僕に合致する条件。さらに、「自分らしく生きるという事を、努力したくない、イヤな事をしたくないという気持ちのすり替えとして使っている」という特徴があるらしい。
つまり、ひたすら無意味に過ごしている現状を「自分らしい」という、一見成り立ちそうな意味づけを行う事によって自我を保っているという事だ。どうにか人生に意味を与えようともがいているのである。
人間は自分の行動に意味や意義が無いと、根本的に耐えられない。
地獄絵図にある賽の河原では、石を積み山を作るが、完成する寸前に鬼がやってきて蹴り崩す。また一から積み直し、鬼に崩されるという繰り返し。無意味の連続。これが根源的な地獄として描かれている。
どこか地獄にいるような感じ、十代後半や二十代前半ってそんな気持ちで生きていたように思う。何者でも無い自分、何者になれるか分からない自分。いま自分がしてる事に意味があるのか。夢の実現に向かう最短ルートを歩んでいるのか。まさに暗中模索、無意味の恐怖と闘っていた。
宗教なんて、まさに人生に意味を与える最強アイテムと言えるし、僕が手にしたアイテムは「書く」という事だったと今にしてみれば思う。
僕は大学で脚本創作を学んでいたので、日常的に「書く」という状況下で暮らしていた。「○○は芸の肥やし」なんて噺家は言うが、こと「書く」という行動にもそれは当てはまる。ただひたすら怠惰にゴロゴロしていて、夜になってその無意味な一日を後悔しても、「この焼け付く後悔の経験が作品に繋がる!」なんて、無意味の恐怖をねじ伏せていた。また、暇にまかせて「ペヤングのぺって、なんだろう?」などという酔狂な疑問を製造販売元のまるか食品に問い合わせるのも「書く」という意義があればこその行動だ。その行動が、端から見たら無意味としか見えなくても。
web日記(ブログ)をつけるようになると、日常生活からネタを捜すようになるから、いろんなものに敏感になり日常が意義深くなる、という意見を良く耳にする。しかし見方を変えれば、どだい無意味な生活に「書く」という意義付けをしただけで、依然として無意味なままだったりする。
こうやって行動にまんべんなく意味を与えるという点ではweb日記作成は宗教的であるし、人生において万能的な有意義を提供するセラピーだとも言える。
僕がチクチク飽きもせず細々このHPを続けているのは、つまりはそういう事なのだと思う。

大地が揺れて、心も揺れる

僕は東京在住なのだが、最近やたらと地震が多い。今日も揺れた。
地震が起きると「揺れてる!」とか「地震だ!」とか言ってパニックとなるひとがいるが、そんなものは言わなくても分かっている。こういう人は歩いていても、目に入った看板の文字を無意識に口に出してしまうのだろう。「毎週水曜日は餃子デー・・・か」
僕は基本的に、パニック沸点が高い方だと思う。
ちょっと分かりにくいか。つまり、そうそう簡単にパニックにならないってことが言いたい。パニック沸点なんていう言葉を作った事が間違いだった。でも、もったいないから使う。パニック沸点。たいして画期的じゃないな、我ながら。
だから、地震が来たとしても、その揺れが常軌を逸しない限りまったく動じない。むしろ、地震に対してリアクションをとってしまう事が恥ずかしいとすら思っているフシがある。
その地震発生時のリアクションのお話。
クールビズが強制的に一般化されたこの8月某日、あまりの暑さに同僚の小泉さんが「暑すぎる!さすがにエアコンの温度設定間違ってるんじゃないですか?」と憤慨し、オフィスの端っこにあるエアコンの温度設定を見に行った。というのも、クールビズ施行以降、僕たちのエリアのエアコン設定が34度というまるで見当違いな設定になっている事が頻発していた。これを僕たちは「総務の陰謀」と呼んで警戒していたのである。
僕も手を休め、ウチワを使って涼をとっていると、グラグラッと来たのである。これは結構な揺れだ。周りは案の定「地震だ!」などと、そのまんまな発言を繰り出して慌てている。
いつもは平静を装う僕だが、その時の揺れはいつもより激しかったのと、僕の目の前に鎮座していて、山田課長が大切にしているイチロー陶器人形が揺れに堪えきれず床に落ち、首がもげてしまった事で幾分か慌てていた。
哀れなイチローを僕がへっぴり腰で救出しようとしているところに小泉さんが戻ってきて、「やっぱりエアコン34度でしたよ!」との報告。
「すげー揺れてる!」「ぎゃああ、イチローが!」「おおお、書類が崩れる!」と小パニックが起きる中、ひたすら「34度だって!」とエアコンの温度を報告する小泉さん。
そして誰も聞いていない。
僕はイチローの首をアロンアルファでくっつけながら、小泉さんはいいなぁと思った。

旅行という名の

水を売り歩く少年

旅行者に対して「なんで?」は禁句だ。
バングラデシュに行く」という僕に、無数の「なんで?」や「なにしに?」が投げかけられた。その都度「ただ行きたいだけです」と答えると、ちょっとだけ考えたあと「でも、何故?」と再び問いかけられる。
僕に理由や目的など無いのである。敢えて言うなら、バングラデシュという所に行ってみる事が目的。だから、着いてちょっと街中を回っただけで、目的は達成されてしまう。その時点で僕は充足してしまい、著しくやる気が無くなってくる。つまり、ヒマになる。日本に帰りたくなる。日本はいい。プリンが食える。
特に観光名所(そんなものは無かったが)に行くでもなく、昼過ぎに起き出して、街を歩いたりその辺のオッサンと話したり。たまに長距離バスに乗って別の街に。また昼に起きて、牛を追っかけたりストリートチルドレンにお菓子をあげてみたり。ただただ、日本に帰るのを楽しみに過ごす。苦行に近い。だって、楽しくないもの。帰ってきてそう言うと、また「なんで行ったの?」なんて言われる。だから、「ただ行きたかっただけ」。
旅行者に「なんで?」なんて目的を執拗に求めると、目的無く動く自分、目的無い人生、それを選んできた過去を振り返ってしまい、落ち込んでしまう。旅行者は「目的」の無い行動をついつい選んでしまうものなのだ。
なんの予定も持たない自由旅行。その空の下ではせいぜい明日の予定しか考えなくて良い。
日本にいたらどうだろう?日本は人生と密着し、明日の予定、一ヶ月後の予定、計画、一年後の目標、そう、常に人生の目的を心のどこかに置いて生きている。
自由旅行は、そんな人生から目的をざっくり切り落とす。目的を考えなくて良い時間を与えてくれる。今、目の前にいる牛を追っかける、今日の晩飯にいいレストランを捜す。そんな近視眼的な考えだけの時間を与えてくれる。
つまり、子どもなのだ。
子どもが人生の目的を考えてサッカーをするだろうか。そこにある、サッカーボールを追いかけるだけである。ひたすら無意味に遊び、かくれんぼをし、服を汚し、ネコを拾い、飼えもしない数のセミを捕獲する。
「なんで、かくれんぼなんかするの?」と、あなたは問うだろうか。
旅行者が「なんで?」と問われる時、どこか自分の幼児性を指摘されたようで、逃避を見透かされたようで、こそばゆさを感じてしまう。できれば、「なんで?」と問わずにいて欲しい。

モードとはアヴァンギャルドの事

クールビズも一段落したところで、その楽さになれた社員の間でカジュアル導入の機運が高まっている。
要はスーツを着たくないという話で、僕の部署は技術系でお客の前に出る事も少ない為、それも実現可能だろうと思われた。
しかし、真っ向反対したのが50代のハゲ課長。いわく「カジュアルとラフは違う」とのこと。
ハゲ課長がいうカジュアルとラフの境目、それは「シャツをズボンに入れるか出すか」。シャツを出せば、それすなわちラフ。よって、そんなのは認められないという主張。カジュアルでも、シャツは常にインするのが必須なのである。
当然のように若い世代は反発する。自称「会社のファッションリーダー(原文ママ)」の松山さんは「確かにインするべきシャツもあるけど、出してかっこいいシャツもあるんだから。アタマ古いっすよ」といきなりタメ口で反論し、この会議のエンターテイメント性をアップさせた。
松山さんは同意を求めるように、「シャツ・インなんて、普段あんまりしないっすよね?」と、鈴本さんに振った。
鈴本さんは(何回かこの日記にも出てきてるように)ホームラン級のバカだから「そ、そば、ばっ!」とか謎の擬音を発したあと、「そ、そうですよ、シャツ・アウト!アウトして着ますよ、アウト!」とか、野球の審判のジェスチャーをしつつ、意味は通じるがいまひとつ説得力に欠ける答を返した。
「確かに、お前はアウト」そんな心中に起こるツッコミが、出席者全員に主題とは違う一体感を作り出す。まさにグルーヴ、これこそライブ感。
また鈴本さんには、更になされるべき指摘事項がある。むしろこちらの方がクリティカルだと思う。
鈴本さんは、ワイシャツを下着のパンツにインしているのである。ワイシャツをトランクスにイン。横に座っている今もイン。
インしすぎだ。奥まで行き過ぎ、オーバーラン。パンツにインを想像して欲しい。どうなるかというと、常にベルトの上から腹巻きのようなトランクスが見えている状態になる。
つまりは、鈴本さんはパンツがアウト。別にローライズでも無いのに、パンツアウト。ファッションの裏技か。新たな重ね着か。
会議が終わったあとに「なんでパンツにシャツ入れるんですか?」と、思い切って聞いてみた。
鈴本さんは笑顔で「ああ、それは昔の話、オレがまだパンツにシャツを入れてなかった頃・・・」と遠い目で説明してくれた。
「僕はね、トイレに行くと、ついついズボンのチャックを上げるのを忘れてさ、そうするとチャックからシャツが出てきて。白いのが。見つかると恥ずかしいじゃん」
などと言う。うおー、チャックを開けてシャツをアウトしてたのか、そうきたか。そこから出したか。完全に意表をつかれたアウトだ。
「だからさ、パンツに入れれば、チャックからシャツでないじゃん」
まさに裏技。ここまで自信をもって言われると、うっかり”本末転倒”なんていう言葉を飲み込まざるを得ない。むしろ「目からウロコですね」などと、伊藤家の食卓のような雰囲気になる始末。
ただ、ピンクのパンツはやめた方がいい。シャツが出てるより目立つから。いちいち言わんがな。