正しき道は暗い道

基本的に僕は「過剰」が嫌いな人間だ。といいつつ、ホームページなどという過剰な自分語りをしながら言うのもなんだが、そこは大目に見て頂きたい。
まあ過剰という言葉自体がいい意味ではないし、世間一般的にも好かれている言葉では無い。だから、そんなに過剰にぶち当たることは無いはずなのだが、でもやっぱりぶち当たるのが人生である。
例えば、大学に入った頃からか、僕はロッキング・オンなどの音楽雑誌に過剰の匂いをかぎとってしまうようになり、めっきり読まなくなってしまった。というか、読めない。
それらの記事は基本的にアーティストへのインタビューやCDレビュー、Liveレポートなどで成り立っている訳だが、その根底に流れているのは自分語りである。過剰と自分語りが結びつくと、かなり混ぜるな危険的状況が生まれるのは想像に難くあるまい。
まだインタビューなどはそのものアーティストによる自分語りなので納得できる。むしろ問題なのはCDレビューのほう。どういうわけか、記事を書く彼らはCDに「出会う」のだ。「買う」でも「聴く」でも無く「出会う」。どうだろう。この言葉のセレクトを見た瞬間に、過剰な自分語り臭がプンプンと匂ってはきまいか。RadioHeadのCDに出会い、心が揺り動く自分。ああ感動。「トム・ヨークの声の中に乾いてしまった涙の記憶を感じる」などと、疲れ目になってしまうような記述も珍しくない。やはりこれは、過剰だと思う。

また、ついつい行動にターボをつけて、人間を過剰化させてしまう燃料に「正義」がある。正義というの本当に怖い。オウムだって正義と信じて馬鹿げた行動に出てしまったわけだし、だいたいにおいて一つの正義を信じる人間は、目がおかしなことになっている。絶対の正義、そういう立場に自分が立ったと思った瞬間、まさに人間は過剰化し、一番危険な状態になるのではなかろうか。

このように、人間は正しいと確信すると、どんなに馬鹿なことでも出来てしまうものなので、僕も努めて気をつけるようにしている。しかし、ついつい正義面をしてしまうこともある。例えば、たばこのポイ捨て。うーん、これは許せん。まして火のついたまま捨てるなど、もってのほかである。僕がヒョードルほどの強さを持っていれば、無差別にマウントポジションをとりかねない。
あと、通勤電車でカバンを脇に置いたり足をおっ広げたりして座席を二人分くらい占有しているオッサン。うーん、これも許せん。正義感が沸々とわき上がるのを感じる。
先日も毎日通勤で使う大江戸線でふんぞり返ってるオッサンを見つけ、沸々と僕は沸き上がってしまった。が、いかんせんヒョードルでは無いので、イヤらしくそのオッサンの脇に尻をねじ込んで無言の抗議を示してやった。平和的かつ教育的指導である。ここまでは良い。
だが、異変に気づいたのは、僕がプリプリの尻を落ち着けた2秒後である。なんだかオッサンがブツブツしゃべり始めたのだ。
「おうおうおうおう、なんだてめぇ!人に尻を押しつけやがって!」
戦慄を覚えてオッサンを見ると、完全に目がヤバイ。サイコだ。ありていに言うとキチガイのオッサンだったのである。
「おうおうおうおう、てめぇまつ毛なげーなぁ、女みてーな顔しやがってオウオゥオ!」と、車両中に響き渡る声で始まった。いやが上にも、車両内の注目は僕とオッサンに集まる。よもや衆目の中、自分のまつ毛を批判されるとは。
僕はチンケな正義感を発揮したことに痛烈な後悔を感じた。と同時に、この難局、窮地を乗り切るには「キチガイには無視が一番」なのではなかろうかと思案した。そこで努めて冷静に無視を決め込んで、カバンからさっきキオスクで購入した週刊SPA!をおもむろに取り出し、難しそうな顔で広げてやった。「オッサンの相手なんかできねーんだよ!」という切ないアピールである。
が、広げたページがいけなかった。そこはリリー・フランキーが「グラビアン魂」と銘打って水着の婦女子があられもなく巨乳をさらす、お気楽ごく楽なページだったのである。
「オウオウオウゥ、朝からおっぱいか!おっぱい見て、いい気分だなぁ!オゥオゥ!」
目の前に整然と座っている乗客の肩が小刻みに揺れている。みんな、下を向いて必死に何かをこらえている。
「ちょッ・・・!」
という僕の嘆息も空しく、オッサンは、
「ウォウオウオウゥ、トゥナイー!!!」
などと「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」を歌い始める始末である。
よもやこのタイミングでH Jungle With t。これこそ音楽との出会いに違いない。

もはや完全に笑いのムーヴメントに包まれる車両にあって、正義と過剰を混ぜてしまった後悔に身を震わせて涙したのであった。