僕たちのジーコ監督

W杯に触れるのは止めようと思っていたんだけど、やっぱり書きたくなってくる。こういう「一言、もの申したい!」と思って、衝動のまま口走って口角泡を飛ばすってのもスポーツ観戦の醍醐味だ。そう考えれば、クロアチア戦以降の柳沢およびジーコ叩きってのも、まあ納得できるかなあと思う。そりゃあ監督としての巧拙を語るならばヒディンクには敵わなかったし、世界的に見ても低レベルの部類なのだろう。

でも、やっぱり僕はジーコが好きなのである。

振り返ってみると、トゥルシエ前監督下での日本代表は「個人の力不足を組織でカバーする」というコンセプトで、それこそ黄色い猿として調教されて結果を出した。そして日本では「やはり我が国は個を殺し、組織で世界に立ち向かうべき」という世論が支配的となった。これは日本人の特性として、当然の帰結であったと思う。
そんななか、ただ一人敢然と「日本人だって、組織に頼らず個人の力で世界に勝てる!」と、大まじめに言い切ったのがジーコである。
サッカーの神様と言われたジーコは、なぜか日本サッカーにその半生を捧げ、Jリーグをここまで育て上げるのに多大な貢献をしてきた。長い時間をかけて日本人とふれあい、一緒にプレーしながら若い選手を見続けてきた。このまま日本サッカーの父といわれ神様であり続ける事が出来たのに、それらを失う事も辞さずの思いで引き受けた日本代表監督。ジーコは日本人を信じた。日本人だって個性を引き出してやれば、組織に埋もれることなく個人の力で世界に勝てると信じたのだ。
その哲学はオーストラリア戦の80分までとクロアチア戦で、一応は通用した。オーストラリア戦の勝利は本当に手のひらに落ちてきていたし、世界の強豪であるクロアチアに、お世辞にも組織的とは言えないながら引き分けた。さらに、ジーコはブラジルにも「勝てる!」と心から信じている。これを愚者の放言と言い切れるだろうか。
中島らも氏のエッセイだと思うが、こんなエピソードがある。
弓矢の達人である若者が、その腕を信じるあまり「あの満月を射落とす」と宣言する。聞きつけた村人たちは口々に「ムリだ」といいながら、大弓を持つ若者のもとに集まってくる。大観衆の中、若者は弓をつがえ、力一杯に引き絞り、大きな満月にその照準を定める。「自分は出来る」と信じ切っている若者の目には自信がみなぎり、その緊張感を湛えた筋肉とにじむ汗は、月光に照らされて冷たくキラキラと輝く。この「愚」の象徴たる若者と、その鍛え抜かれて今こそ力を解き放とうとしている筋肉は、俗を超越した輝きを放つ。その己を信じる力と勇気が、強烈な聖性としてあたりを照らしているのだ。
いわずもがな日本代表とは、僕たちの代表である。僕たちの延長線上に日本代表はいる。日本代表の問題は、いままでずっと僕たち自身だって抱えてきている問題なのだ。ジーコ監督はそんな僕たちの力を本気で信じ、ブラジルを射落とさんとその力を引き絞っている。こんな監督はもう金輪際現れないだろう。
だから、ブラジル戦が終わった後、「アシュケ〜」とか言いながら打ちひしがれるジーコより、満面の笑みで日本国民に「どうだ!できただろう!」と語りかけるジーコが見たい。ジーコのチームは、そんな思いを抱かせるほどにロマンチックであると思う。

・序説『ロマンチック・ジーコ号』→ここ