人生の整合性

山手線のつり革にぶら下がっていたら、となりに韓国人の男女が立った。
僕は、なにか必死に議論している彼等の会話の盗み聞きをしていた。
韓国語のリズムに僕が慣れてきたタイミングで、いきなり「でも、そういうのはダメじゃん」という日本語が聞こえてきた。さっきまでの流ちょうな韓国語にいきなり入り込んだ日本語。そのコントラストは、なぜかすごく鮮やかだった。
彼等は続けて同じ会話を日本語で行う。どうやら職場であるレストランのオーナーに不満があるらしく、それは休みが少ないとか給料が低いとか、ほんとうにありふれた内容だった。
しかし、韓国語から日本語に変化し、不明から解明へとだんだん明かされていく会話からは、彼等の生活や育ち、考え方や欲しいものが見えてくる。これはやはり、とても興味深い体験だった。
前に紹介した「シナリオ創作の基本」で、いかに「劇的要素を組み立てるか」を語っておいてなんだが、会話の盗み聞きをしていると、物語は「劇的要素」がなくても成立すると思える。
ハリウッドでは、その創世記から「原因→結果」というルールの下に劇的要素を創作し、明快な映画を世界中に輸出してきた。
それへのアンチテーゼとして、真逆を行こうとしたのがフランスでのヌーヴェルバーグ初期であると思う。映画の中でひとつの現象が発生し、物語が展開する。別にその現象に原因がなくてもいいだろ?いきなりそれが起きて、至って普通の出来事でもいいだろ?と、開き直って見せたのである。
この直感的なハリウッド映画への反抗は、すごくフランスらしい。ハリウッド映画を見せ続けられたフランス国民は、それが明快であるが故に、そこで描かれる「アメリカ的な生活」をすり込まれていく。合理的な資本主義のもと、画一化されたプラスティック製の社会。だからフランス人知識層は反発する。「これはまさに文化的侵略だ」と唱えるのである。
他方、アメリカ大嫌いな中東にもハリウッド映画は輸出されるわけで、それによるアメリカ的文化の浸透を知識層は「堕落」と断じた。イスラーム的には「堕落へ導く映画」を輸出し続けるのがアメリカなのである。この辺にも中東人がアメリカを嫌う一因があったりして面白い。
フランス映画でも中東(イラン)映画でも、この「原因→結果」からなる劇的要素を排除した映画が多く作られている。それを受け入れる文化はそれぞれに違うのだろうが、両方とも「面白い」。「楽しい・ワクワク」じゃなくて、「興味深い」という意味の面白さ。
韓国人の会話を聞いていて、ついつい僕は平凡から非凡への変化を期待する。不満は爆発するものだと思い、願いは叶うとどこかで期待する。頑張れば、報われる。目標を持てば、達成される。成功への100の法則。いまこの時間を大切に。
ああ、やっぱりハリウッド的な発想になっている。