動けよ手足

僕はどんくさい。どうもうまく手足というか、体全体を統率できないのである。

寝起きが悪い僕は、毎朝のように遅刻ギリギリに家を出て駅の階段を駆け上るのだが、どんなに急いでいても一段とばしが出来ない。よって走りつつも一段ずつを踏みしめて上るわけだが、足の前後運動が著しくトロいため、さほど歩い上るのと変わらない。なのにしっかりコケるのだ。どんくさいにも程があろうというものだ。

そんな僕が最初に就職したのが、小さい印刷・編集会社だった。ファッション誌の制作などをしていたのだが、こういう雑誌の仕事はほんとうに息つく暇がない。ページレイアウトを作ってるのにモデル写真が来ない、来たと思ったらサイズも違うし商品も違う。すべてがやり直しとなって、午前3時にデザイン会社へ車を飛ばすなんてのはザラであった。

そう、ザラであったのだが、いかんせん僕はどんくさい。車を飛ばす事が苦手なのである。

その日は横浜のデザイン会社によった後、首都高を恵比寿方面へと走っていた。芝公園付近の長いカーブにさしかかったあたりで、やや混んできたのか、車間距離がつまり始めた。「ああ渋滞かなぁ」と落胆した直後、前の車が急ブレーキを踏んだのである。

急転直下の出来事に僕が反応できるわけもなく、ブレーキすら踏まずにまっすぐ突っ込んだ。大きな衝撃と共にボンネットがめくれ上がって視界をふさぎ、シュゥーという音でエンジンは停止。よく事故の瞬間は視界がスローになるというが、僕の場合はまったくそんな事はなく、「あ、ブレーキ踏んだ?」 ドーン! 「ぎゃー」 ボンネットボーン! ってな感じだった。

修羅場になると出るのが本性だ。僕がまず思ったのは、「いかにしてごまかすか」。動転した頭で出した対策は「ブレーキがいきなり壊れた」などという3秒で嘘とバレる言い訳であった。
ニュースで犯罪者の言い訳を聞いて「アホか」と冷笑していた僕であったが、いざ自分に降りかかってみると、「ブレーキ壊れた」などという噴飯物の言い訳をしようとしている。
それどころか、内心は「いける!ごまかせる!」と確信していたのだ。加えて、ブレーキを踏んだ記憶がないのがプラスになるとピピーンときた。ブレーキが壊れたからこそ、ブレーキを踏めなかったという仮説が成り立つのでは無いか。逆に。逆じゃないけど。以上の思考の後、稚拙なウソを並べ立てる決心をして車外に出た。

すると追突された前車のドライバーが駆け寄ってきたので、計画通りにウソをつこうとしたのだが、「ブレーキが!ドンて!踏んで!」などと、意味不明な事を言ってしまった。どんくさいことに、ウソひとつつけないのである。ニュースでよく「容疑者は・・・と、意味不明な供述を」と言われるが、あれ?あれ? それは僕だった。

舞い上がる僕の言葉を遮り、前車のドライバーは 「車内でガムを落としてしまって、取ろうとよそ見して、前が詰まっていることに気づかずに・・・急ブレーキを踏んだんです」などと平謝りに謝ってきた。さらに、どうやらその急ブレーキも間に合わなかったらしく、前の車に激しく追突している。
なんだか雰囲気的には、「僕はあんまり悪くない」感じになってきているではないか。ほんとうに「ブレーキが壊れて!」などという3秒でバレる嘘をつかずに良かった。いや、つけずに良かった。どん臭くて得をしたケースである。

警察が手配したレッカー車に同乗し、事故車を引っ張りながら首都高から降りた。その最中、ラジオでは「芝公園付近で事故、渋滞10キロ」と、僕のせいで出来た渋滞をアナウンスしていた。「僕ですか?」という問いかけに、レッカー車の運転手は「ですね」と無表情で答えた。
そのままトヨタのディーラーに事故車を持ちこんだあと、恵比寿のデザイン会社に電車で行き、朝の4時まで働いた。そういう会社だったのである。

半月ほどして、修理の終わった車をトヨタディーラーが持ってくるという。点検の為に係長と一緒に駐車場で待っていると、トヨタの兄さんが「どうもーっ」という明るい声で、完璧に直った事故車に乗ってきた。
兄さんが停めやすいように、僕は「ちょっと動かして場所あけます!」と、気を利かせてそばの車に飛び乗り、ドアを開けて後ろを確認しながらバックした。
そのまま細い路地に入ろうと、ぐいぐいバックしていたとき、開けていたドアが電柱に引っかかり、バツン!という音と共に有り得ないとこまで開いた。180度開いたドアを初めて見た。車体前方の側面を叩いたドアは、ゆっくりともげた。また、ブレーキは踏まなかった。

トヨタディーラーの兄さんが「どうもーっ!」といいながら、新たな事故車の乗って帰った。

僕はどんくさいのである。