動けよ手足

僕はどんくさい。どうもうまく手足というか、体全体を統率できないのである。

寝起きが悪い僕は、毎朝のように遅刻ギリギリに家を出て駅の階段を駆け上るのだが、どんなに急いでいても一段とばしが出来ない。よって走りつつも一段ずつを踏みしめて上るわけだが、足の前後運動が著しくトロいため、さほど歩い上るのと変わらない。なのにしっかりコケるのだ。どんくさいにも程があろうというものだ。

そんな僕が最初に就職したのが、小さい印刷・編集会社だった。ファッション誌の制作などをしていたのだが、こういう雑誌の仕事はほんとうに息つく暇がない。ページレイアウトを作ってるのにモデル写真が来ない、来たと思ったらサイズも違うし商品も違う。すべてがやり直しとなって、午前3時にデザイン会社へ車を飛ばすなんてのはザラであった。

そう、ザラであったのだが、いかんせん僕はどんくさい。車を飛ばす事が苦手なのである。

その日は横浜のデザイン会社によった後、首都高を恵比寿方面へと走っていた。芝公園付近の長いカーブにさしかかったあたりで、やや混んできたのか、車間距離がつまり始めた。「ああ渋滞かなぁ」と落胆した直後、前の車が急ブレーキを踏んだのである。

急転直下の出来事に僕が反応できるわけもなく、ブレーキすら踏まずにまっすぐ突っ込んだ。大きな衝撃と共にボンネットがめくれ上がって視界をふさぎ、シュゥーという音でエンジンは停止。よく事故の瞬間は視界がスローになるというが、僕の場合はまったくそんな事はなく、「あ、ブレーキ踏んだ?」 ドーン! 「ぎゃー」 ボンネットボーン! ってな感じだった。

修羅場になると出るのが本性だ。僕がまず思ったのは、「いかにしてごまかすか」。動転した頭で出した対策は「ブレーキがいきなり壊れた」などという3秒で嘘とバレる言い訳であった。
ニュースで犯罪者の言い訳を聞いて「アホか」と冷笑していた僕であったが、いざ自分に降りかかってみると、「ブレーキ壊れた」などという噴飯物の言い訳をしようとしている。
それどころか、内心は「いける!ごまかせる!」と確信していたのだ。加えて、ブレーキを踏んだ記憶がないのがプラスになるとピピーンときた。ブレーキが壊れたからこそ、ブレーキを踏めなかったという仮説が成り立つのでは無いか。逆に。逆じゃないけど。以上の思考の後、稚拙なウソを並べ立てる決心をして車外に出た。

すると追突された前車のドライバーが駆け寄ってきたので、計画通りにウソをつこうとしたのだが、「ブレーキが!ドンて!踏んで!」などと、意味不明な事を言ってしまった。どんくさいことに、ウソひとつつけないのである。ニュースでよく「容疑者は・・・と、意味不明な供述を」と言われるが、あれ?あれ? それは僕だった。

舞い上がる僕の言葉を遮り、前車のドライバーは 「車内でガムを落としてしまって、取ろうとよそ見して、前が詰まっていることに気づかずに・・・急ブレーキを踏んだんです」などと平謝りに謝ってきた。さらに、どうやらその急ブレーキも間に合わなかったらしく、前の車に激しく追突している。
なんだか雰囲気的には、「僕はあんまり悪くない」感じになってきているではないか。ほんとうに「ブレーキが壊れて!」などという3秒でバレる嘘をつかずに良かった。いや、つけずに良かった。どん臭くて得をしたケースである。

警察が手配したレッカー車に同乗し、事故車を引っ張りながら首都高から降りた。その最中、ラジオでは「芝公園付近で事故、渋滞10キロ」と、僕のせいで出来た渋滞をアナウンスしていた。「僕ですか?」という問いかけに、レッカー車の運転手は「ですね」と無表情で答えた。
そのままトヨタのディーラーに事故車を持ちこんだあと、恵比寿のデザイン会社に電車で行き、朝の4時まで働いた。そういう会社だったのである。

半月ほどして、修理の終わった車をトヨタディーラーが持ってくるという。点検の為に係長と一緒に駐車場で待っていると、トヨタの兄さんが「どうもーっ」という明るい声で、完璧に直った事故車に乗ってきた。
兄さんが停めやすいように、僕は「ちょっと動かして場所あけます!」と、気を利かせてそばの車に飛び乗り、ドアを開けて後ろを確認しながらバックした。
そのまま細い路地に入ろうと、ぐいぐいバックしていたとき、開けていたドアが電柱に引っかかり、バツン!という音と共に有り得ないとこまで開いた。180度開いたドアを初めて見た。車体前方の側面を叩いたドアは、ゆっくりともげた。また、ブレーキは踏まなかった。

トヨタディーラーの兄さんが「どうもーっ!」といいながら、新たな事故車の乗って帰った。

僕はどんくさいのである。

バングラデシュのすすめ

ちょうど一年前の今頃、バングラデシュを旅行していた。
とりたてて特筆すべき観光名所も無く、まさに雑然とした都市と交通の要衝となっている船着き場、そしてお節介な人々が魅力の国であった。世界最貧国のひとつであるバングラデシュに住む人々は、格差とか収入差とか差別などの発想が入り込む余地もなく、ただただ、「おれ、そして家族」という信念のもと、生活に根を張ってニヤリと笑って人生をこなしているようだった。
首都のダッカを歩いていると、それこそ万の数のリキシャが走っているのだが、なぜかひとりのリキシャ夫と何度も何度も顔を合わせてしまい、そのたびに後ろに乗りこんで案内してもらった。
リキシャとは、人力車の自転車版のようなもので、自転車の後部を人が座れるように改造したものである。横に二人くらい座れるシートで屋根もついている。
と、ここまでバングラデシュとリキシャの事について書いてきたのは、僕がリキシャに乗っている時に撮った映像をここにアップできるようになったからである。はてなダイアリーの新機能で、youtubeを貼り付けられるようになったのだ。そこでさっそく使ってみたくなったわけだ。
ということで、僕が撮った「首都ダッカでのリキシャ目線映像」です。見つめすぎると酔うんで、離れて見てみて下さい。いや、どうってことないんですけど。
 
 


 
 

ここからは、あまりに少ないバングラデシュの旅行情報を。行く予定の無い人にはまったく無意味であります。
まず、ダッカでぜひ乗って欲しいのは、観光のハイライトであるショドル・ガットから出る客船である。これは船体両脇についた水車を回して推進力を得るという古き良きタイプの船だ。このタイプではおそらく、世界で商業運行している最後の船だと思う。
しかし、チッタゴン(Chittagong)やボリシャル(Barisal)まで乗っていければいいのだが、日程的にそこまでいけない人、あんまりダッカから離れたくない人は、チャンドプール(Chandpur)という中継地で降りるといい。だいたい3時間ぐらいの船旅が楽しめる。夕暮れの出航であり、広大なブリゴンガ川の水平線に沈む夕日、さらには沿岸にポツリポツリと見える街の光。それらを古式ゆかしい船に乗って眺めるのである。ちなみに、お願いすればコックピットに連れて行ってもらえる。
チケットの買い方だが、チッタゴンで降りる場合は街のBIWTCオフィスで買うのだが、チャンドプールで降りる場合は直接船に乗り込んで買うことになる。出航が18:00で、16:00頃になると船着き場に船が着いているので、そこで買う。値段は一等200タカ。個室は与えられないが、快適なので一等がいいと思う。
さて心配はチャンドプールに到着してからであろう。夕暮れ出航ということは、チャンドプールにつくのは夜の9時過ぎになる。よってそこからホテル探しとなるのだが、チャンドプールのホテル情報を日本で得るのは非常に困難であるため、ここで書いておきたい。
HOTEL RAJANIGANDDA
HOTEL PRINCE
だいたい一泊シングル200タカくらい。エアコン付きは300タカくらいか。
チャンドプールの船着き場からリキシャに乗って約30分。運賃はだいたい15タカ。延々と暗い道を通るのでかなり不安感を覚えるが、上記のホテルならほとんどのリキシャ夫が知ってるので大丈夫だと思う。

あと、雨期に東北のシレットなどにバスで向かうと、完全に道が水没している。湖のど真ん中の水面をバスで走るという恐ろしい経験が出来る。いつなんどき道を踏み外して川に落下するかハラハラである。

などなど。他にも何かご質問があれば、答えられる範囲でお答えしますので。観光という文脈ではまったくと言っていいほど話題とならないバングラデシュであるが、けっこう楽しいところなので行ってみて欲しい。僕はもう行かないけど。

人生の整合性

山手線のつり革にぶら下がっていたら、となりに韓国人の男女が立った。
僕は、なにか必死に議論している彼等の会話の盗み聞きをしていた。
韓国語のリズムに僕が慣れてきたタイミングで、いきなり「でも、そういうのはダメじゃん」という日本語が聞こえてきた。さっきまでの流ちょうな韓国語にいきなり入り込んだ日本語。そのコントラストは、なぜかすごく鮮やかだった。
彼等は続けて同じ会話を日本語で行う。どうやら職場であるレストランのオーナーに不満があるらしく、それは休みが少ないとか給料が低いとか、ほんとうにありふれた内容だった。
しかし、韓国語から日本語に変化し、不明から解明へとだんだん明かされていく会話からは、彼等の生活や育ち、考え方や欲しいものが見えてくる。これはやはり、とても興味深い体験だった。
前に紹介した「シナリオ創作の基本」で、いかに「劇的要素を組み立てるか」を語っておいてなんだが、会話の盗み聞きをしていると、物語は「劇的要素」がなくても成立すると思える。
ハリウッドでは、その創世記から「原因→結果」というルールの下に劇的要素を創作し、明快な映画を世界中に輸出してきた。
それへのアンチテーゼとして、真逆を行こうとしたのがフランスでのヌーヴェルバーグ初期であると思う。映画の中でひとつの現象が発生し、物語が展開する。別にその現象に原因がなくてもいいだろ?いきなりそれが起きて、至って普通の出来事でもいいだろ?と、開き直って見せたのである。
この直感的なハリウッド映画への反抗は、すごくフランスらしい。ハリウッド映画を見せ続けられたフランス国民は、それが明快であるが故に、そこで描かれる「アメリカ的な生活」をすり込まれていく。合理的な資本主義のもと、画一化されたプラスティック製の社会。だからフランス人知識層は反発する。「これはまさに文化的侵略だ」と唱えるのである。
他方、アメリカ大嫌いな中東にもハリウッド映画は輸出されるわけで、それによるアメリカ的文化の浸透を知識層は「堕落」と断じた。イスラーム的には「堕落へ導く映画」を輸出し続けるのがアメリカなのである。この辺にも中東人がアメリカを嫌う一因があったりして面白い。
フランス映画でも中東(イラン)映画でも、この「原因→結果」からなる劇的要素を排除した映画が多く作られている。それを受け入れる文化はそれぞれに違うのだろうが、両方とも「面白い」。「楽しい・ワクワク」じゃなくて、「興味深い」という意味の面白さ。
韓国人の会話を聞いていて、ついつい僕は平凡から非凡への変化を期待する。不満は爆発するものだと思い、願いは叶うとどこかで期待する。頑張れば、報われる。目標を持てば、達成される。成功への100の法則。いまこの時間を大切に。
ああ、やっぱりハリウッド的な発想になっている。

僕たちのジーコ監督

W杯に触れるのは止めようと思っていたんだけど、やっぱり書きたくなってくる。こういう「一言、もの申したい!」と思って、衝動のまま口走って口角泡を飛ばすってのもスポーツ観戦の醍醐味だ。そう考えれば、クロアチア戦以降の柳沢およびジーコ叩きってのも、まあ納得できるかなあと思う。そりゃあ監督としての巧拙を語るならばヒディンクには敵わなかったし、世界的に見ても低レベルの部類なのだろう。

でも、やっぱり僕はジーコが好きなのである。

振り返ってみると、トゥルシエ前監督下での日本代表は「個人の力不足を組織でカバーする」というコンセプトで、それこそ黄色い猿として調教されて結果を出した。そして日本では「やはり我が国は個を殺し、組織で世界に立ち向かうべき」という世論が支配的となった。これは日本人の特性として、当然の帰結であったと思う。
そんななか、ただ一人敢然と「日本人だって、組織に頼らず個人の力で世界に勝てる!」と、大まじめに言い切ったのがジーコである。
サッカーの神様と言われたジーコは、なぜか日本サッカーにその半生を捧げ、Jリーグをここまで育て上げるのに多大な貢献をしてきた。長い時間をかけて日本人とふれあい、一緒にプレーしながら若い選手を見続けてきた。このまま日本サッカーの父といわれ神様であり続ける事が出来たのに、それらを失う事も辞さずの思いで引き受けた日本代表監督。ジーコは日本人を信じた。日本人だって個性を引き出してやれば、組織に埋もれることなく個人の力で世界に勝てると信じたのだ。
その哲学はオーストラリア戦の80分までとクロアチア戦で、一応は通用した。オーストラリア戦の勝利は本当に手のひらに落ちてきていたし、世界の強豪であるクロアチアに、お世辞にも組織的とは言えないながら引き分けた。さらに、ジーコはブラジルにも「勝てる!」と心から信じている。これを愚者の放言と言い切れるだろうか。
中島らも氏のエッセイだと思うが、こんなエピソードがある。
弓矢の達人である若者が、その腕を信じるあまり「あの満月を射落とす」と宣言する。聞きつけた村人たちは口々に「ムリだ」といいながら、大弓を持つ若者のもとに集まってくる。大観衆の中、若者は弓をつがえ、力一杯に引き絞り、大きな満月にその照準を定める。「自分は出来る」と信じ切っている若者の目には自信がみなぎり、その緊張感を湛えた筋肉とにじむ汗は、月光に照らされて冷たくキラキラと輝く。この「愚」の象徴たる若者と、その鍛え抜かれて今こそ力を解き放とうとしている筋肉は、俗を超越した輝きを放つ。その己を信じる力と勇気が、強烈な聖性としてあたりを照らしているのだ。
いわずもがな日本代表とは、僕たちの代表である。僕たちの延長線上に日本代表はいる。日本代表の問題は、いままでずっと僕たち自身だって抱えてきている問題なのだ。ジーコ監督はそんな僕たちの力を本気で信じ、ブラジルを射落とさんとその力を引き絞っている。こんな監督はもう金輪際現れないだろう。
だから、ブラジル戦が終わった後、「アシュケ〜」とか言いながら打ちひしがれるジーコより、満面の笑みで日本国民に「どうだ!できただろう!」と語りかけるジーコが見たい。ジーコのチームは、そんな思いを抱かせるほどにロマンチックであると思う。

・序説『ロマンチック・ジーコ号』→ここ

シナリオ創作の基本

数学者が神の存在を信じるというのは、何となく分かる気がする。全方位的に混沌、何の規則性も無いものに、一本の公式が明確な秩序を与える。そこに神の仕業を見ても不思議ではあるまい。
僕は全くの文系人間で、因数分解が登場以降の数学のテストで40点以上取ったことがない。追々々試まで行ってようやく進級したような男だが、この「混沌に実は秩序が存在した」ってのが大好きである。
そういう意味で、宗教は本当に面白い。例えば、世界の混沌を「因果」で表す仏教。
「因果」とは、原因があるから結果があるという、拍子抜けするほどに単純な思想だ。例えば「僕が携帯で誰かと話す」という行為ひとつとっても、そこには宇宙の因果が存在する。星の数ほどの因果を経由して、僕が誰かと何かを話す。ここを貫いている因果という秩序に惹かれてしまうのだ。

僕が大学でシナリオを専攻したのも、この思いと無関係では無いと思う。シナリオの基礎の基礎だが、すべての物事や行動には、原因が無ければならない。唐突な行動、意味不明な結果というのは歓迎されない。銃を撃つにはしかるべき理由がいるし、自殺するにも納得できる動機を描かねばならない。よって交通事故なんかは、シナリオ的に”禁じ手”とされている。偶然は許されないのだ。

最近、本棚を整理している時に、大学の時の「シナリオの基礎の基礎」ノートが出てきた。大学の講義やら本やらを自分なりにまとめたものだ。せっかくなので、冒頭部分をここに記しておこうと思う。ハリウッド的シナリオ創作の基礎といえる。

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『シナリオ創作の基本』

1.テーマの設定
まず、テーマとは「愛」や「人生」であってはならない。ついついこういった観念をテーマにしてしまいがちだが、「愛は素晴らしい」や「人生は悲しい」などの方向付けがされて、はじめてテーマとなり得る。ただし、テーマは前もって言葉にしない方が良い。作家が書きながら、結末を探しながら考えるものである。そうしないと、ついついテーマを剛速球で投げるような作品となってしまう。それでは伝わらない。テーマとは、あくまでやさしく放ってあげるものである。

2.ストーリーテリング
日本では古来より「起承転結」という4stepを使うが、現代の映画、特にハリウッド映画で基本とされているのは3step、「起転結」(序破急)である。

    • 第一幕「うずくまる」

何かに悩んだり、挫折したり、大きな問題が起きたり。登場人物は足掻く。のたうち回る。とてもかっこわるいシーンだが、これらを美しく描く事ができれば、次のstepでの華麗な跳躍につながる。うずくまって、しゃがんで、力を貯めている幕といえる。また、主人公は自分が物語の核であることを知らない。主人公の知らないところで物語を動かしていく。

    • 第二幕「跳躍する」

主人公は何かをきっかけにして、何かに気づく。自分の中に可能性を発見する。生き方を見出して明確な目標を意識する。前幕で貯めていた力を解放して跳躍する幕である。ここで主人公は、初めて自分が物語の核であることに気づく。その「気づき」をいかにドラマチックに仕立て上げるかが重要。

    • 第三幕「旋回する」

思わぬ方向に事態が動く。予測不能なとんでもない展開に。それがうねりながら、速度を上げてクライマックスに突入していく幕である。

3.キャラクター
基本的に、キャラクターには魅力が無ければならない。一番単純な魅力は、いい男やいい女であること。いい女の立ち振る舞いは、それだけで魅力的なのだ。他にも「特技」を持ってると魅力は増すし、二面性を持たせるのも良い。捨て猫を拾うヤンキーなどが典型的な例ではないだろうか。
また、人物には(当人が意識するしないに関わらず)目的に向かっての一貫した行動がなければならない。各個人に、それぞれ明確な目標を設定する事が重要である。その目標の達成過程において障害を発生させる必要がある。この障害を「カセ」という。カセとは足枷のことで、登場人物の邪魔をし足を引っ張る。とくに第二幕で跳躍しようとする主人公にカセをぶつける事で葛藤が生まれ、ドラマが生まれる。

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とまあ、こんな感じだ。ほんとうに基礎的なのだろうが、今でも、いわゆる「ハリウッド的」と呼ばれる作品は上記の法則に当てはまってる事が多い。そんな視点で映画を観てみるのも面白いと思う。一貫していることは、とにかく辻褄がちゃんとあってる事であり、原因結果がはっきりしていること。これが曖昧だと、映画は一気に難解なものになる。それは他文化多言語、さらには低識字率の国々といった世界に供給されるハリウッド映画にとっては致命的なのだ。
この後のノートはどんどんテクニカルなものになっていき、「キャラクターの設定や成長のさせ方」や「コメディックな手法」「台詞の構成」などと延々続いていく。いつかご要望があれば載せていきたい。たまには、こういう懐かしみつつ書いた記事もいいなあと思った。

ロマンチック・ジーコ号

なんだかんだで、日本代表が負けた。

各メディアでは押さえきれぬジーコ批判が漏れはじめ、クロアチアに負けた瞬間に大噴火して列島を覆うことであろう。

オーストラリアは、けして勝てない相手ではなかった。むしろ勝って当然の試合展開だったとも言える。まさにジーコの強運というべきゴールで先制した後、オーストラリアはほとんど無策に近い状態だった。ヒディンク・マジックなんてどこにも存在しなかったし、彼らは、ただただ前線にボールを放り込む事しか出来なかった。
日本の最終ラインはほぼ問題なく対処していたし、最終ラインの少しだけ前で中田英と福西がフラットなポジショニングを取って、こぼれ球からの二次攻撃を封じていた。グダグダの消耗戦の様相を呈した試合は、時間がたつにつれ、限りなく日本を勝利に近づけていたはずだった。

サッカーのセオリー通りに行けば、疲労の見える中村に代えて稲本や、守備の出来ない三都主に代えて中田浩二をいれ、さらにディフェンスを強化、グダグダを助長して時間を溶かし込むところである。もしくは玉田を投入して前線からのプレスを効かせつつカウンターを狙うのもありだろう。

しかし、ジーコは違った。
柳沢に代えて小野。頑ななパワープレーを挑んでくる相手に、ディフェンシブハーフとして小野を投入したのである。これに驚愕した日本人は多かったのではあるまいか。
「がっちり守って試合を終わらせろ」よりむしろ「ボールポゼッションを上げ、もう一点とって息の根を止めろ」というメッセージを僕はジーコから感じたのである。
まさにロマンチック・ジーコ。つねに主導権を握り、自らのアクションによる華麗でスペクタクルなフットボールを理想とするジーコ
もはや1-0がお家芸になったイングランドや、あのポルトガルやオランダでさえ、泥臭くグダグダになりながらも1点を守りきるサッカーをし、勝ち点3をもぎ取りに行った。
が、ジーコは違う。
自らの哲学に大まじめに従い、日本代表で、このワールドカップ初戦の舞台で、スペクタクルなアクションフットボールをやってしまう。試合を壊してクローズするなんて発想が無いのである。

そう思って選出メンバーを見てみると、まず驚くことにセンターバックの控えが、急遽招集の茂庭しかいない。ボランチの位置で確実にボールを刈り取ったり、汚く、そして汗をかく選手がいない。(トルシエ時代の戸田がそれ)
つまり、初手から1-0で逃げ切る事を想定していないのだ。逃げ切るのではなく、2-0にして突き放すチームをジーコは作ってきたのだ。

こんなロマンチックな監督と日本代表は、もう二度とお目にかかれないだろう。そんなチームを、僕たちは4年間、なんだかんだで支持してきたのだ。だから、華麗に果敢に、哲学に従って、日本はクロアチアとブラジルに真っ向勝負を挑むだろう。正直、僕は楽しみだ。このチームは、あり得ないような日本代表を見せてくれるかもしれない。
こうして、おそらく史上最強のメンバーを揃えた日本代表は華々しく散っていくのだろう。
もう、ロマンチックは止まらないのである。

正しき道は暗い道

基本的に僕は「過剰」が嫌いな人間だ。といいつつ、ホームページなどという過剰な自分語りをしながら言うのもなんだが、そこは大目に見て頂きたい。
まあ過剰という言葉自体がいい意味ではないし、世間一般的にも好かれている言葉では無い。だから、そんなに過剰にぶち当たることは無いはずなのだが、でもやっぱりぶち当たるのが人生である。
例えば、大学に入った頃からか、僕はロッキング・オンなどの音楽雑誌に過剰の匂いをかぎとってしまうようになり、めっきり読まなくなってしまった。というか、読めない。
それらの記事は基本的にアーティストへのインタビューやCDレビュー、Liveレポートなどで成り立っている訳だが、その根底に流れているのは自分語りである。過剰と自分語りが結びつくと、かなり混ぜるな危険的状況が生まれるのは想像に難くあるまい。
まだインタビューなどはそのものアーティストによる自分語りなので納得できる。むしろ問題なのはCDレビューのほう。どういうわけか、記事を書く彼らはCDに「出会う」のだ。「買う」でも「聴く」でも無く「出会う」。どうだろう。この言葉のセレクトを見た瞬間に、過剰な自分語り臭がプンプンと匂ってはきまいか。RadioHeadのCDに出会い、心が揺り動く自分。ああ感動。「トム・ヨークの声の中に乾いてしまった涙の記憶を感じる」などと、疲れ目になってしまうような記述も珍しくない。やはりこれは、過剰だと思う。

また、ついつい行動にターボをつけて、人間を過剰化させてしまう燃料に「正義」がある。正義というの本当に怖い。オウムだって正義と信じて馬鹿げた行動に出てしまったわけだし、だいたいにおいて一つの正義を信じる人間は、目がおかしなことになっている。絶対の正義、そういう立場に自分が立ったと思った瞬間、まさに人間は過剰化し、一番危険な状態になるのではなかろうか。

このように、人間は正しいと確信すると、どんなに馬鹿なことでも出来てしまうものなので、僕も努めて気をつけるようにしている。しかし、ついつい正義面をしてしまうこともある。例えば、たばこのポイ捨て。うーん、これは許せん。まして火のついたまま捨てるなど、もってのほかである。僕がヒョードルほどの強さを持っていれば、無差別にマウントポジションをとりかねない。
あと、通勤電車でカバンを脇に置いたり足をおっ広げたりして座席を二人分くらい占有しているオッサン。うーん、これも許せん。正義感が沸々とわき上がるのを感じる。
先日も毎日通勤で使う大江戸線でふんぞり返ってるオッサンを見つけ、沸々と僕は沸き上がってしまった。が、いかんせんヒョードルでは無いので、イヤらしくそのオッサンの脇に尻をねじ込んで無言の抗議を示してやった。平和的かつ教育的指導である。ここまでは良い。
だが、異変に気づいたのは、僕がプリプリの尻を落ち着けた2秒後である。なんだかオッサンがブツブツしゃべり始めたのだ。
「おうおうおうおう、なんだてめぇ!人に尻を押しつけやがって!」
戦慄を覚えてオッサンを見ると、完全に目がヤバイ。サイコだ。ありていに言うとキチガイのオッサンだったのである。
「おうおうおうおう、てめぇまつ毛なげーなぁ、女みてーな顔しやがってオウオゥオ!」と、車両中に響き渡る声で始まった。いやが上にも、車両内の注目は僕とオッサンに集まる。よもや衆目の中、自分のまつ毛を批判されるとは。
僕はチンケな正義感を発揮したことに痛烈な後悔を感じた。と同時に、この難局、窮地を乗り切るには「キチガイには無視が一番」なのではなかろうかと思案した。そこで努めて冷静に無視を決め込んで、カバンからさっきキオスクで購入した週刊SPA!をおもむろに取り出し、難しそうな顔で広げてやった。「オッサンの相手なんかできねーんだよ!」という切ないアピールである。
が、広げたページがいけなかった。そこはリリー・フランキーが「グラビアン魂」と銘打って水着の婦女子があられもなく巨乳をさらす、お気楽ごく楽なページだったのである。
「オウオウオウゥ、朝からおっぱいか!おっぱい見て、いい気分だなぁ!オゥオゥ!」
目の前に整然と座っている乗客の肩が小刻みに揺れている。みんな、下を向いて必死に何かをこらえている。
「ちょッ・・・!」
という僕の嘆息も空しく、オッサンは、
「ウォウオウオウゥ、トゥナイー!!!」
などと「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」を歌い始める始末である。
よもやこのタイミングでH Jungle With t。これこそ音楽との出会いに違いない。

もはや完全に笑いのムーヴメントに包まれる車両にあって、正義と過剰を混ぜてしまった後悔に身を震わせて涙したのであった。