絶対という言葉はあるのか?

実際、牛丼を食えなくなって真剣に困っている人がどれだけいるのか分からないが、世間にBSEが与えた衝撃というのは、かなりなものである。
仙台などは「名物の牛タンはアメリカ産」ということがバレて(おそらく適切な言い方じゃないと思うんだけど)しまい、各方面に被害をまき散らしながら蛇行中であると言える。
そんな中、テレビを見ていたら「まあ狂牛病にかかるのは、隕石に当たるのと同じ位の確率ですから・・・」などと言うコメンテーターがいたが、その根拠はともかくとして、それなりにストンと心に落ちる一言ではあった。
確かに「だから何だよ?」といったたぐいの一言ではあるのだが、僕の心に落ちたのは、”確率”の部分である。
何でも”確率”で言われると、なんかそんな気になってしまう。
占いでも「占星術というのは、過去歴史における確率と統計の集積から未来を予測します」といわれれば、ツッコミどころが満載なれど、それなりな説得力を持ってしまう。僕には。
「飛行機が落ちる確率より、自動車事故の確率の方が遙かに高い」は、飛行機嫌いの人に向かってよく言われる一言だ。そしてそれなりの説得力を持つ。
なんか偉そうなのである。確率を絡めると。
そもそも、日本人は(こういうまとめ方はいかがとは思うのだが)確率が好きである。
一介の単位にすぎない”%”が、至る所でハバをきかせていることを考えてほしい。
日常使用する外来の単位でメートル法を除けば、日本の単位界(あれば、さ)においては他の追随を許さぬ勢いだ。
朝テレビをつければ「今日の降水確率は60%です」と、天気という一日の行動を大きく左右する大事を、確率(%)をもって報告されるのだ。
しかしながら、ここで確率に丸め込まれずに考えるのが人間である。
言わずもがな、雨というのは降るか降らないかの二者択一である。
相撲のように、確実にどちらかが先に土俵を割ったかがはっきりする世界である。
違いは、天気には物言いが付かないところだ。
従って、60%という答えは、我々が発する「で、雨降るの?」という重大な問いかけとは微妙にずれている。
そこで僕は、気象庁に「何%以上は傘を持っていった方がいいですか?」と問い合わせてみた。
回答は「30%以上」だそうだ。
ちょっと心配性すぎないか?気象庁
僕は続けて「で、実際、どれくらい天気予報は当たるんですか?」と聞いてみたところ、「80%以上を目指しております」との答え。
また確率(%)である。
おそるべし、確率(%)の勢力。これは根が深い問題である。なにが問題だ。