大人ごっこ

僕が小学生の頃、図書室に貼ってあったポスター。そこで紹介されていた本のタイトルを、いまだに覚えている。
「大人になりたい僕と、子どもになりたいお父さん」
なぜここまで鮮烈な印象を持って記憶しているかといえば、やはり当時の僕は"強烈に"大人になりたかったからだと思う。
子どもという概念に子どもが反発するのは当然の話で、なぜなら、子どもは自分の事を"子ども"だと思っていないからだ。
中島らもは、名作「お父さんのバックドロップ」の中で、「大人には、子どもの部分がまるごと残っています。子どもにいろんな要素がくっついたのが大人なのです」と語りかけている。
大人がくっつけているいろんな要素、それは常識だったり知識だったりするわけだが、それらの副作用は「やる気・乗り気」をしぼませてしまう事だ。
子どもは何につけ、強烈に「思う」生き物だ。新しいサッカーボールを買えば、自分は中田英寿になれると思いこむ。バットで素振りをしながら、イチローになっていると思いこむ。
強烈に思いこむ。
蹴りこんだボールはワールドカップのゴールに突き刺さり、大歓声の中、バッターボックスに入ってマウンドの松坂と対峙する。
ロケットの噴射口、巨大な大王イカ、無敵の宇宙艦隊に匹敵する、そんな怒濤のエネルギーがサッカーボールには詰まっているのだ。
僕は自転車にそんな無限のエネルギーを感じ、壮絶なおねだりの末、「宇宙戦艦ヤマト自転車」を買ってもらった事がある。
これで僕はどこまでも行けると思った。それこそ宇宙や見た事の無い砂漠、知らない街。自転車の向こうに無限の世界が広がったのである。
そしてまたひとつ、僕が強烈に思いこんでいた事。それは、このヤマト自転車で兄(良也)を抹殺する事だった。
この良也といえば、キン肉マンを見ては僕に「パロスペシャル」をかけ、ブルース・リーになりきり、北斗百烈拳を「あたたたたた!」繰り出すなどの悪逆非道、手を変え品を変え弟の僕を迫害していた。
その上、自分の事を"良也君”と君付けで呼ばせる事を強要した。実の弟にである。逆らおうものなら、どんな超人の必殺技をくらうか分かったものではない。
そんなわけで、僕は宇宙戦艦ヤマトチャリンコさえあれば、そこに搭載されているハズの「波動砲」で良也を木っ端微塵に出来ると考えたのである。
納車の日、「良也の命運もこれまで!」とばかりに意気込んで家に帰ってみると、既に良也がヤマトチャリンコにまたがって庭をぐるぐる回っている最中だった。
あまつさえ、波動砲発射装置とおぼしきハンドルの赤いボタンを連射している。そのたびに、「ビー、ビー」と攻撃力のかけらも感じない音が鳴っている。
絶望にうちひしがれている僕に追い打ちをかけるように、「お前は乗せてやらない!」と高らかに宣言した良也は、たまたま遊びに来ていた従兄弟の浩介を自分の前に乗せ、二人乗りをはじめた。
良也がペダルをこぎ、浩介がハンドルを操作するつもりである。
「オレが波動エンジンを担当する、浩介は舵を切れ!ヨーソロー!」などと良也はいいつつ、二人で道路に出て行った。
泣きながら僕が追いかけると、「敵艦接近、逃げろ!」と、ペダルをこぐ足に力を入れる。「浩介、そこの坂道に逃げろ!」と指示、浩介も必死にハンドルを操作する。
スピードアップしたヤマトは、そのまま家の脇にある下りの坂道に突入、さらに大きく加速した。
完全にコントロールを失ったヤマトは、良也の「うおおーー!」という叫び声を残し、側溝の出っ張りでジャンプ、そのまま田んぼに突っ込んだのである。
哀れ僕のヤマトは田んぼの藻くずに。
いったいぜんたい、子どもというのは何をやっているのかと思う。
僕がヤマト自転車を買い、出るわけ無い波動砲で良也をとっちめようとし、良也が嫌がらせで僕より先に自転車に乗り、浩介と二人乗りした挙げ句に田んぼにダイブ。
終始一貫、無意味の連発である。間抜けだ。意味不明だ。
無意味ながらに、気がつけばしてしまう。この辺が子どもだ。
無意味を嗤う大人達。でも、そんな大人達の子どもの要素を引き出すもの、それを「子ども発生装置」と呼んだとして、それってけっこうそこらに転がっている。
あなたの目の前にあるデジカメ。望遠鏡。シール。ギター。大人が欲しいものの多くは「子ども発生装置」だったりする。
そして、やる気・乗り気、「好きだ!」と強烈に思いこむ事。それを捜したりしている。
「子どもになりたいお父さん」なのである。