空の白球だけを追って

最近、とある人とのやりとりの中で「僕は十代の頃と同じことで悩んでいます」と言った。
まず、軽佻な発言はいまに始まった事ではない。それはさておき、僕の十代からの悩みが、ひどく抽象的であることに、ようやく気づいて愕然とした。
「抽象的な悩み」という言葉を、いままで自然に受け入れてきたが、これは僕の脆さをよく表している。
「具体的な悩み」であれば、「悩み」という行動を「考える」という行動に移行することが可能だ。その先にあるものが絶望であれ、解決であれ、または悩みの発展であろうとも、その悩みを自分で転がすことができるけど、「抽象的な悩み」はどうだろう。
抽象的な悩みがもたらす精神状況は、「不安」である。そう、僕がいままで悩みだと思って悩み続けていた状態は、「不安」だったのだ。不安は迷いを生み、迷いは不安を増幅させる。
僕はもう28歳なのだが、いまだに高校球児が自分より大人に見えてしまう。それは、彼らが発する迷いの無さであり、一直線な、いわゆる一生懸命さが原因だと思う。まるでハリウッド映画の主人公のように、目標に向かって一直線で一生懸命。
だが、その一生懸命に脆さの匂いを感じたとき、ちょっとだけ子ども達に見えてくる。一生懸命は、とてもやっかいだ。もしかしたら、致命的なくらいに。
目標って、人生で言えば、夢、なんだろうけど、夢に一生懸命な人は、本質的に脆い。だから、簡単に挫折する。そして、迷う。
十代の頃からの抽象的な悩み、それってつまり、"夢"だったりするから、ほんとうにやっかいな話だ。