この国のかたち

知り合いが結婚式をするらしく、神前式か教会式かで議論となっている。
僕は「日本人らしく、神前式で然るべきだろう」と意見したのだが、「じゃあ、日本人らしさって何?」という疑問をぶつけられた。
よく耳にする話だが、日本人は外国人に「日本ってどんな国?」と聞かれたとき、明確に答える事ができないらしい。
これはいたって当然な話で、「日本らしさ」を言葉で定義するなど、どだい不可能な話だ。僕らの中にあるというか、僕らが認識している「日本人らしさ」って、いわば「絶対の美」みたいなもで、イデア界的概念に近いものだと思う。
何かを美しいと思うけど、なぜそれが美しいかを言葉で説明する事は出来ない。でも、美しいという基準をもっており、突き詰めれば、自分の中に「絶対の美」をもっているはずだ。それと同じように、「日本人らしさ」というのは、みんなの中にあるけど、言語化出来ない、言語の限界を越えた概念だ。
その「日本人として」という事を、どうにか明文化したものがある。
皆さん良くご存じの、日本国憲法だ。
そもそも憲法というのは、二種類ある。現在制定されている日本国憲法のように、きちんと明文化されているもの。もう一種類は、明文化されていない、その国(国民)の根本規範とも言えるもの、国民が共有しているべき「この国とは」という概念である。イギリスなどは、明文化された憲法は存在せず、この国民が共有している概念が憲法となっている。(ちょっと正確じゃないけど)
本来憲法とは、と考えた場合、当然、国の根本規範(国民が共有している考え)が大前提となり、それに基づいて明文化憲法が制定されるべきである。ただ、敗戦によって連合国に与えられた憲法であるが故に、「日本人らしさ」の多くが抜け落ちていて、それが改憲論議の一因となり、日本人が「日本人とは?」という疑問に答えられない一因ともなっている。
といいつつ、日本人として、という最後の砦を、連合国も残していて、言わずもがな、「天皇」である。常に日本の中心にいて、(一応)万世一系とされる天皇家。「日本人らしさ」という言語化不可能な概念を、天皇という象徴に仮託する、それは「国」というものを意識させる装置として、すごく興味深くて、そういう意味では、森前総理が言った「日本は天皇を中心とした神の国」というのは、あながち間違いではないのである。
憲法というカタい話を天皇まで持ち出してしてしまったが、まあ、なかなか日本人らしさを説明する事は難しく、むしろ不可能に近い。とまあ、憲法はむりやり明文化されたものだから、いろんな解釈が入り込んで当然なわけだ。
良く話題に上る第9条も、その時代時代で様々な解釈をされるし、憲法とはそういうものだとも言える。でも、9条がデリケートなのは、周辺諸国への配慮も必要な所であって、まあ、ハッキリ言えば中国と朝鮮なんだけど、ちょっと間違うと、最近のデモのようになるわけだ。このデモに関しては、思想的には、まったく日本に落ち度は無いし、中国は謝罪して当然だと僕は思う。
が、我が国の日本国憲法前文。引用しますが、すぐ下に(ちょっと恣意的な)解釈を書くんで、面倒な人は読まなくていいです。

  • 〜〜政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。〜〜 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

解釈としては、「えー、我が国政府は再び間違いを犯し、すぐ戦争をしようとする。そうならないよう、日本国民は、平和を愛する諸国民に期待し、日本政府を監視します。」
どうでしょう。信頼している周辺諸国は、反日デモ真っ盛りです。でも我が国では、そんな周辺国を自国政府より信頼せよと憲法に書いてあるわけで、文句が言えないはずだ、と考えた夜でした。