生き方の哲学

「あの人だったら、こういう時はどうするだろう?」なんて思う事がある。
ある状況下で、自分の判断に自信が持てないときに頭をよぎる考えだ。つまり、思考停止に近い状態。
僕は怒るのを極めて苦手としているので、「怒るべきか否か」という状況下に置かれたとき、こういう思考停止に陥ってしまう。
最近、浅草のラーメンチェーン店でラーメンと餃子を頼んだのだが、ラーメンは来たのだが餃子が来ない。
どうやら隣のオッサンに出していた餃子が本来は僕の餃子であったらしく、「間違えました」の一言で、僕のところに餃子を移してきた。
いやいやいや、「間違えました」じゃないだろう。その餃子は5分くらい前に持ってこられて冷めている上、オッサンがむせながら食ってる豚骨ラーメン直下にあったわけだ。そんな餃子を唯々諾々と食うかと。笑顔で喰らうかと。
さすがに温厚な僕でも「すみませんが、ちょっと、冷めてるし・・・」と、控えめな抗議をしたところ、「新しいのをお持ちします」と持っていったので、ひとまずは気を取り直した。
で、その30秒後、新たな餃子が出てきたわけだが、どう見ても”レンジでチン”しただけの同じ餃子。形が個性的だったため間違いない。指でつついたら、確かにアツアツはなっていた。チンだから当然だけども。
まさにオラオラ系の人なら「店長を呼べ!オラァ!」といったところだ。そうでなくても、怒る人が大多数だろう。
が、怒れない。僕は怒れないのである。情けないけど仕方がない。
そして思った。「ああ、中島義道ならどうするだろう?」
中島義道とは、僕が大好きで全ての著作を読んでいる”闘う哲学者”である。彼ならばチン餃子を認めた瞬間、一瞬のうちに次のような思考をするであろう。
「チン餃子に関して、こちらに落ち度は皆無。では、この店員の行動及び責任を追及するのに邁進しよう。ああ武者震いがしてくる。店員はどういう弁明をするだろうか。平謝りだろうが、そんなものは認めない。”何故”を徹底追求しよう。そして一言漏らさず聞いてから、完璧なまでに反論しよう。店員は泣くだろうか。想像するだに興奮してきた。さあ、いくぞ!」
中島義道はイヤなモノから逃げない。それどころか、心をときめかしてイヤを正視する。その上、哲学者として言論をもって徹底追求するわけだ。
それに対して、なんで僕は怒れないんだろう。考えてみるに、「いい人に見られたい」というのが根底にある気がしている。波風を立てねばいい人を維持出来るし、なにより人に嫌われない。
この思考をも中島義道は喝破していて、「人に嫌われるというのは、全く自然な事。なぜなら、私は妻と息子に激しく嫌われている」と言い、「人間は自分が嫌いな人にも嫌われたくないものです」と言う。
そう、僕は人から嫌われる事に対して、ものすごい恐怖を抱いているのだ。これは否定出来ない。今しか会わないであろうラーメン屋の店員にも嫌われたくない。”嫌われた”という事実が、どこか僕の人格的欠損を示すような気がするから。自己否定に繋がるから。
そうこう考えているうちに店員は去ってしまい、チン餃子が目の前に残された。今思い出すと意味不明なのだが、抗議の意を込めて手を付けず、紙ナプキンを餃子に被して席を立った。
それを認めた店員は「すいません、すいません」と平謝りで、餃子の料金は請求しなかったが、なんだろ、店員に嫌われなかった事で安心している僕がいる。とても不毛な精神状態だと思うが、気分が良いのである。
こうやってひとときの安静を得、真実の感情をぶつけないのは、哲学に対する反逆だ。人生が何かを求めるものだとすれば、生の感情を出さない、ぶつけないというのは、何も得られないと言う事だ。立ち向かう事から逃げているわけだから。それは、根本的な欺瞞である。欺瞞は哲学の敵だ。
中島義道は、立ち食いそば屋でも欺瞞を許さない。
”急いでいるので「すぐできる?」と聞いてソバを頼んだのだが、持ってきた時に「ごゆっくりどうぞ」と言いやがった!”
一気にONとなるスイッチ。そして、店員を徹底的に追求しだす。「ごゆっくりとはなんだ!形式的な、欺瞞的な一言だ!」
急いでいるのをすっかり忘れる中島義道。哲学者は今日も闘う。