黄金郷は何処?

家の近くで、入谷朝顔市という祭が行われている。

入谷鬼子母神の前、言問通りを入谷交差点から鶯谷駅までの間に、100以上もの朝顔を売る店が並ぶ。二万鉢以上の朝顔が売れるという。
会社からの帰り道なので、人混みの中を色々見て回り、例年通りベビーカステラを購入し高カロリーを摂取して喜んだ。

去年の日記を見ると、やはりベビーカステラを買ってご満悦な事が伺える。内容は祭の思い出について書いていて、けして完成度も高くないし、書き上げるまでの時間も少なかったのだが、なんだかとてもお気に入りの日記だ。(未来は握りこぶしの中に

お気に入り、というか、好きっていう感情について考えた事ってあんまり無い。生きていれば、好いたり嫌ったりの連続だが、さっぱり考えた事もなく、それが正しい気もするので考えないようにしている。

「好き」とか「嫌い」という感情は、個人のパーソナリティを考えた場合、その「強さ・度合い」がかなり個性を左右する。どれだけ強烈に「好き」や「嫌い」を表明しているか。魅力的な人って、色んなものを好いたり嫌ったりで、本当に忙しい。

ハリウッドに限らず、日本のドラマでも、主人公は強烈に何かを好きだったり嫌いだったりする。人物設定の基本である。
「好き」は行動や人生に一本の道を通すし、「嫌い」も同じだ。野球が好きな人物、不正を嫌う人物。どんなに複雑な性格でも、ここだけは単純化する。そうする事によって、目的もはっきりする。人物がぼやけていたり魅力が無いのは、この辺を決め切れていない場合が多い。

ここまで書いてきて、僕の悪いクセである安直な結論をだすならば、「自分の好きを意識する事で、人生の目的を明確化できる」、なんて事だが、どこかしっくりこない話だ。

人生の目的を明確化なんて言葉を使ったが、「好き」と絡めて考えるならば、良く耳にするこんなフレーズになる。
「あなたにもほんとうに好きな事、やりたい事があるはずでしょう?」
結論から言えば、そんなものは無い。少なくとも、そう問いかけるあなたが満足する答は無い。
例えば、のび太が答えるとするならば、「昼寝」や「あやとり」とかになるだろう。
聞き手は眉をひそめる。そして続ける。「そんなのじゃなくて、他にもあるでしょう?」
「そんなの」は好きな事として認めない。要は、職業(金)にならない事は認めないのである。昼寝では金を稼げない。
「じゃあ、野球かなぁ」とのび太がいうと、それも認めない。のび太が野球選手になれるワケがが無い。そんなのは日本国民全てが熟知している。
「じゃあ、植物が好きだから、花屋とかいいなぁ」と言ったところで、ようやく聞き手は満足する。実現の可能性があるから。

結局、ちまたで言われる「ほんとうに好きな事」って欺瞞的な発想だ。かなりの制限下において「好き」を選択せねばならないから。
のび太だって成長して大人になれば、自分の可能性を自分で制限し、その中で好きな事を捜す。そして、見つからない。
自分に出来そうで、かつ金になって、それでいてほんとうに好きな事。

そんな都合のいいものは無い。

可能性が無くても、好きに邁進出来る人。そんな物わかりが悪い生き方は、確かにとても魅力的だ。うっかり目指してしまいそう。結果、成功する人もたま〜にいて、とても運が良くてムダが無くて、ハリウッド映画のサクセスストーリーのような人生。
そんな話は滅多にないから映画になって、面白がって観に行くんだけど。