朝、痒い

僕が小学生だった頃、一緒に帰っていた友人の金子君と口論になったことがあります。
それは「浅香唯は屁をこくのか?」という議題で、僕は当然「こく派」なんですが、金子君は「こかない派」で、そのうえ「肛門すら無い派」でした。

「じゃあ、浅香唯の尻はどうなっているんだ」と問いつめると、金子君は、ズボンを降ろして尻を開いて自らの肛門を出し、「すくなくとも、こうではない」と自信たっぷりに言い切ったのです。

「そんじゃあ、佐知子(クラスで一番かわいい)は?」と続けると、「それは・・・こんくらい」と、やや尻を閉じ、肛門をすぼめてみせました。

彼の中では、綺麗な人ほど肛門が無くなるというロジックが確立されていたのです。

浅香唯といえども、肛門は確固として存在する(見たわけではないが)と思っていた僕とは、当然口論になったわけで、ややぎこちない関係が続いたことを覚えています。じつに小学生らしい喧嘩のタネですが。

しかしながら、この「綺麗な人は、絶対的に綺麗」と、素直に認める事ができるというのは、実は得難い人間性だったりすると思います。

そう思うのは、僕は常日頃から「どうも冴えない。面白くない」と思っている冴えない人間である事が大きいと思われます。

冴えないのは、どこまで行っても自分の責任である事は理解しているのですが、だからといって、それを全て受け止めるほど完成された人間ではないので、ついつい会社にケチをつけたり、社会を呪ったりしてしまうのです。
情けない話なのですが、事実なのだから仕方がない。

その上、自分より生き生きしている人を見ると、うらやましく思ったり、ねたましく感じたりするだけで、けして「素直にその人のすごさを認める」事ができない。
どうにも、くやしいのからです。

そうなると人間てのは愚昧なもので、高レベルな人を強引に自分のレベルに持ってきて、チンケなケチをつけ、ささやかな優越感を感じようと思ってしまうらしいのです。

「あいつはすごい、けど、あいつだってオレと同じで…」っていう、敗者の論理ですね。

小学生から少しは成長したと思っていましたが、心のあり方は、あの時金子君に浴びせた、

「ふんっ!浅香唯だって、ウンコするじゃん!」

から変わって無いんですね。それにしても。