生物としての心と体

買ったイス。

長らく更新をさぼってしまったのは、ひとえにギックリ腰のせい。
大江戸線の地中深くから地上へと続く階段を駆け上がっていたら、「うにゅ?」という、半疑問系の音が腰から聞こえて、そのまま動けなくなってしまった。
つまるところ、軽度の椎間板ヘルニアというモノらしく、以来、PCの机に向かうイスに、長時間座る事が出来なかったのです。
ウチのイスは教室にあるようなシンプルな木製の為、腰にかなりの負担がかかる。固いのである。
ということで、やや腰にやさしそうな、やわらかいワークチェアを買った。
インテリア的には愕然とするが、致し方ない。背に腹や腰は変えられないのです。

体のある部分を痛めると、今まで全く意識していなかったソコが、俄然存在感を放ち始める。
改めて、「オレには腰というものがあったのだ」と思い至り、さらには「背骨の節々の間に、緩衝材となる”うにょうにょ”した椎間板がある」と意識を集中させ、背骨の脇を上下に走る神経繊維の存在すら明確に意識するようになってくる。
人間の体は、どこまでいっても物質なのだなと思わざるを得ない。
椎間板が神経に当たれば、物理的に痛くなる。
いままで存在しなかったように振る舞っていたモノが、物質として主張を始めるのである。

発症してからというもの、しばらく布団の上で横になって過ごしたのだが、全くやる事が無い。
本を読むというのも結構疲れるもので、精神を腰痛に支配されていると、頭の中に内容が入ってこない。
テレビを見るのに飽きると、もはや物思いをするくらいしか時間をつぶせないのである。
ただでさえ腰痛でブルーな気分の中、無意味に物思いにふけっていると、ついつい人生のテーマなど、よせばいいのに考えてしまう。
そして僕は、右往左往、五里霧中、行雲流水流れるだけの人生を送っているのではあるまいか等と、あたりまえにダウナーな状況に陥ってしまう。
そうやって病めば病むほど、心というものを意識し、心が病んでいくことを実感する。
心とて、けして物質を超越するものではない。
負荷をかけ、積み重ね、それが限界を超えれば、心もまた物質としての本性を露わにする。
悩みを抱え、それを何とか解決しようとする努力。
努力に限界を感じ、解決に絶望すれば、そんな悩みなど無かったかのように思いこむ。思いこもうとする。
しかし、心は、肉体として物理的に存在している。
実在を乗り越え、物質を超越しようとするならば、それを元から無くしてしまうほか無い。
自分が無くなってしまえばいいのである。

椎間板ヘルニアも、切れば治る。

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