永遠も半ばを過ぎて

本棚を見ればその人となりが分かると言うが、納得すると共にイヤらしい話だなと思う。
本棚を見られるということは少なからず自分の「好き」を見られる事であり、これは僕にとってはかなり恥ずかしい。
「好きな作家は?」とか聞かれると非常に困ってしまう。
「好きなもの」を提示するということは、「自分がこう見られたい」という決意表明をするようなプレッシャーを感じてしまう。
例えば「村上春樹が好きです」という自己紹介を、僕はついつい深読みしてしまうし、「ドリカムが好き」という中にも「自分を分かってメッセージ」が含まれてると思うし、「ナイン・インチ・ネイルズが好き」なんて、そのロック的ストイックさを理解してあげねばと、こっちが緊張する始末である。
僕のいた大学は芸術系だったこともあり、そこでは「自分の好きなモノ」というのは「自分自身のセンス」「目指すモノ」「感性」といった最近重要視されるクリエイティブ的能力のアピールの要素が大きく、その手の質問の度に緊張して答えていた。
中にはそんな「感性ジャンケン」に疲れたため、何を聞かれても「リバプールは美しい」と答えていた先輩がいたが、それが果たして「逃げ」なのか「最初はパー!」的な反則技なのか、より強力な「感性ジャンケンウェポン」なのか未だ理解できないでいる。
ともかく、このサイトにもあるがプロフィールの中の「好きなモノ」とかをそういった目で見ると、その人となりが見えるというお話。
冒頭、そういう見方が「イヤらしい」と言ったばかりだが。
前置きが相変わらず長くなったが、僕が好きな作家を”あえて(←ココ重要)”挙げるとするならば、それはもう「中島らも」である。
7月に他界された偉大な作家であり、僕が高校の時に狂った様に読みあさった。反復読みの結果その内容が頭に染みついてしまい、この日記のどこかでも「らも産」のネタを使っていそうであり、それはパクリとなってしまうのだが、まあそこまで読み込んでいたという事である。
らもさんはエッセイの中で「僕の理想の死に方ってのはね、昨日まで元気で、みんなの笑顔を見ていい気分で酔っぱらって、そのまま階段から落ちてポックリ」とおっしゃっていたが、まさに「階段から落ちて」亡くなってしまった。本望と言うべきか。
また、非常に東洋的な世界観に魅入られていて、著作「エキゾティカ」の中に非常に感銘を受けた記述がある。
「人というものは島だ。島は海によって隔てられている。ある島が形を変えれば、海に波紋が起こり他の島の形も変える。つまり、それぞれが影響、共鳴し合ってそこにあり、生きている。そして海底ではつながっていて、ひとつの大きな塊なのだ」
自分の感性であったり、自分の性格も、突き詰めれば他者との関係性の中で作られている事に気づく。
水面の上に落ちた油の様に、少しの波風で大きく自分は変わってしまう。
そしてそれは、死という事態をもってしても大きな波紋をそこに加え、他の人の形を変える力となって生き続ける。
人間というひとつの大きな塊の中で、それぞれは永遠なのだ。
「好きなモノ」というのは、その永遠の波間に揉まれて生きた人間の形でもあり、その表明は、また自分を変えて他人を変えていくさざ波となっていく。
とびっきりの「好きなモノ」。これを叩きつけることで、実は生きているという事が分かる。

http://www1.odn.ne.jp/umakubi/