パンツをはいたサル

僕は長い間、「視線」について考えている。「目線」と言ってもいい。
とはいっても、「目は口ほどにモノを言う」とか、「目」が象徴する様々なものについて考察してるわけではない。
それを一生考えていても、なんの成果も残せないだろう。
僕が考えているのは、単純に「目線を合わせるか、合ったらどうするか」である。
想像してみて欲しいんだけど、例えばさ、5〜6人で飲んだ後の帰り道、別れる時にさ、その中に好きな子がいたとしようよ。
で、その好きな子が”ひなの”という名前としよう。僕の好みだから。そこに疑問はいらないから。
ともかく、別れ際、最後に視線をひなのに合わせますか?という話。
うーん、僕は合わせられない。照れて。ついつい、ジャイアンみたいな山瀬にあわせちゃう。
そう、目線合わせるのって、照れが発生するよね。
こんな時はどうだろう?
友達と待ち合わせたとしようよ。そこが公園とかで、やたら見通しがいいの。
その友達も”ひなの”としようか。そこはいいだろ。友達から発展するんだから、大抵は。
で、僕が待ってると、すげー向こうからひなのが歩いてくるのを見つけちゃう。向こうも見つけちゃう。
でも、会話が出来るほどに近づくには、3分くらいかかる。その3分間、目線を合わせますか?という話。
これで3分間も目線合わせたら、照れまくりですよね。お互い。
でも、チラッチラッてのも、照れる。僕がひなのを好きなのがバレるかも。意識してるみたいな。なんだそれは。
まあ、チラチラと目を合わせつつ近づいて、言葉を交わしたら、だいたい照れって収まる。
言葉って、「照れ」っていうある意味本能的なものを隠してくれる機能があると思う。
言葉の無いカップルって、照れているか、愛という本能で繋がっているか。
「人間は本能が壊れた動物」とよく言われるけど、壊してるのかどうかは分かんないんだけど、「隠してる」のが言葉であるに違いない。
もし言葉が無くなったら、より本能的な社会になると想像される。
本能って、すごく攻撃的だったり即物的だったりするから、いまより緊張した空気が流れる事は間違いない。
実は、言葉が無くて緊張感がみなぎる社会が身近にある。それは車社会。
この社会は、言葉がクラクションとかウィンカーしかない。もう、本能むき出し。
いきなり車線変更するヤツ。「急いでいる」という自分だけの欲求に忠実なヤツ。クラクションが好きなそこのけドライバー。
まさに本能がぶつかり合う大惨事。
そんな車社会に放り込まれた結果、僕は今日、横断歩道を渡っているだけでにトラックの運ちゃんに「チンタラ歩くな!」と怒鳴られた。
僕は自分の「チンタラ歩き」をコンプレックスと思っているため、いたく傷ついて、精神の安息を得るためにこんな日記を書きました。
車社会は本能社会。本能は攻撃的。はい、納得しましたよ、ええ。
トラックは「ゴッド・ファーザー愛のテーマ」を流しながら去っていきましたけどね、崖に落ちればいいのに。
復讐欲も本能だよな、きっと。