鏡の迷宮

オフィスで向かい合わせに座っている鈴本さんが、ここ三日間同じ資料を見続けている。
とある企業間通信のパンフレットなのだが、A4の一枚ものだ。
それを三日間、ほんとにずっと見つめ続けている。たまに、裏返して小首をかしげたりする。何かに疑問を持ったのだろうが、裏は白紙だ。どういった疑問なのか。もしかして、すごく根源的な疑問か。
分からない。とんと、分からない。おそらく、そのパンフレットそのものというより、パンフレットの向こう側を見ているのだろう。
それは鈴本さんしか見えない、「あっち側の世界」なんだろう。
要は、ただヒマでボケッとしているだけなのだと思う。
といいつつも、そんな鈴本さんを僕もボケッと見つめているし、なにより、僕は人一倍ボケッとしているタイプだ。
それを意識しはじめたのは小学校の時で、「あ、オレいまボケッとしてるな」と、ある日認識した。
それ以降、僕は意識してボケッとするようになった。ぼけ〜っとしながら「ボケッとしているときは、呼吸をしているのだろうか」と、自分の呼吸音に耳を澄ませてみたり、行った事のない友達の家を想像の中で歩き回ったりした。それが僕にとっての「あっち側の世界」だったんだろうと思う。
その結果、通知票に「ボケッとしている事が多い」と書かれて、母親を多少心配させた。
最近の鈴本さんを見て、僕も初心に帰ってボケッとしてみた。とりあえず、鈴本さんの家に、空想で行ってみる。
まず、家は一戸建てか。壁の色は何色か。玄関ドアは扉か、引き戸か。そこで見上げると、何が見えるか。開けたときの音は。靴はどんな風に並んでいるか。匂いは。
ちょっと試しにやってみて欲しいのだが、ディティールまで空想するのは、ほんとうに疲れる。ものすごく脳を使う。
人間は、見たいものしか見ないから、それを想像するは大変だ。いかに細かな情報が捨てられているのかが分かる。
集中してボケッとしてると、パンフレットを見つめる鈴本さんに声をかけられた。
「昆虫って、口で呼吸するんだっけ?」
やっぱり、あっち側に行ってたのである。
お互い、仕事をするべきなのは間違いない。