尾崎放哉の世界

尾崎放哉(おざきほうさい)という俳人をご存じだろうか。
種田山頭火と並ぶ自由律俳句の大家であり、貧窮のうちに生涯を閉じた孤高の人である。
放哉が詠んだ自由律俳句とは、文字制限(五・七・五)無し、季語無し、ルール無しの、まったくの自由な俳句の事だ。
最近、宮沢章夫さんの本を読んでいたら放哉の俳句を紹介していて、すっかりその魅力にとりつかれてしまった。
是非僕も放哉の魅力的な句を紹介してみたくなった。
「素晴らしい乳房だ蚊が居る」
僕ごときがこの句の評価を与える事はできないが、この吸引力はどうだ。ここまで引き寄せられる一文に出会ったのは、初めてかもしれない。
解釈としては、男子永遠の夢である素晴らしい乳房、ついぞそれをこの目で見た。するとどうだろう。そこに蚊がいた。
「だからどうした」そんな低次元な問いかけなど、まったく受け付けない。口に出すのもはばかられるというものだ。
さて、一番有名な放哉の句と言えば、こちらではないだろうか。
「咳をしても一人」
まさに、孤高という生き方を表すかのような一句。また、同じ「一人シリーズ」では、
「墓地から戻ってきても一人」
というのもある。並べると、いっそう孤独感が漂う。
「咳をしても一人」
「墓地から戻ってきても一人」
また、墓地に関する句も放哉は多く詠んでおり、代表的なものでは、
「墓のうらに廻る」
この、まるで死後の世界をかいま見るような寒々しい句。晩年に詠まれた句である事からも、この句を詠んだ放哉の心はいかばかりか。
気分なおしに、少し明るい句を。放哉は、ミカンがとても好きだった。
「蜜柑たべてよい火にあたつて居る」
ほのぼのだ。勢い余って、
「病人の蜜柑をみんなたべてしまった 」
とおちゃめな一面をのぞかせる。そんな放哉が日常の営みを詠んでいる。
「二階から下りて来てひるめしにする」
「今朝はどの金魚が死んで居るだらう」
「足のうら洗へば白くなる」
足を洗っているところなど、なかなかにきれい好きだったようだ。
そんな放哉には、「爪シリーズ」がある。
「爪切ったゆびが十本ある」
指が十本あったのだ。さらに、きれい好きな放哉は憤慨する。
「どれも汚ない足のゆびの爪だ」
ついには、
「爪のあかを見もしない」
だいぶ投げやりになってくる。多少トホホ感を漂わせている。他の「トホホシリーズ」としては、
「足袋が片ツ方どうしても見つからない」
「帽子を被るくせを忘れてしまって禿げとる」
「皿のお菓子が一つになっとる」
さらには、
「机の足が一本短かい」
これでは、俳句を詠むのに支障すらある。
このトホホの向こうにある、ちょっとした絶望。生活苦。病気。放哉を取り巻く悲劇が詠まれる句がある。
「打ちそこねた釘が首を曲げた」
一本の釘を打ちそこね、曲げてしまった。釘とは、比喩である。放哉自身の。そして、
「釘箱の釘がみんな曲って居る」
悪化している。まさに悪い方に向かって進んでいる。
「底が抜けた杓で水を呑もうとした」
「入れものが無い両手で受ける」
杓から両手からこぼれ落ちてしまう幸せ。ついには、
「水汲桶の底をぬいてしまって笑った」
笑うしかない。呵々と。
しかし、どうしてこうも、訴えかけてくるんだろう。何が訴えかけてくるのか、とても僕の表現力ではおぼつかない。
放哉の句に喚起される心象風景。わき上がってくる気持ち。言葉の強さを再認識する思いである。