娘の婚礼、牛5頭

お盆という事で、新潟に帰郷していました。
見渡す限りの越後平野を地平線まで連なる田んぼ、母校の小学校は全校70人。隣家は牛を飼い、軒先に山と積まれた枝豆。これがまたたいそううまい。黒崎茶豆。
とまあ一言でいうとド田舎なのだが、ド田舎の家って鉄の掟が多く「お盆に帰る」ってのもそのひとつだから、万難を排して帰省せねばならない。だって、鉄の掟だから仕方ない。
こういう風に物事がかっちり決まっていてほとんど変化が無かったり、それが問題なく通用する狭い世間で過ごすってのは田舎の利点であり難点でもあるんだけど、僕はかなり窮屈さを感じてしまったので東京に出てきている。
十年一日たるその利点を懐かしみ、一度出た都会から戻ってくる友人も多く、むしろ戻らず頑張る僕の方が少数派だ。
高校の頃におつきあいをしていた彼女も、東京に出て音楽や芸術を学んだ後、やはり新潟に帰って農家の嫁となった。
この夏に会ったときには二児の母となっており、乳が出て仕方か無いという。ペチャなりに出るのだそうだ。
農家の嫁、まして子育て中ともなると、その世間はかなり狭い。移動はほぼ家の敷地内、話す相手は夫の親と近所のジジババ。
「ほんと、テレビで見るアフリカの原住民と変わらないよ。自分の見える範囲しか世間がないんだもの」と言う。
その家の掟では、米を炊くのが嫁の仕事。姑はおかずとみそ汁を作る。彼女は料理を最も苦手としている上、ピアノをやっていたクセにいたく不器用な為、米をうまくとぐ事が出来ない。
「最近は考えてさ、五合炊く時はね、六合でとぐのよ。一合分流れるから」などと米作農家の嫁らしからぬ放言。
また、家長であるじいちゃんは昔気質の厳格さを保っているらしく、口ごたえを許さない。
「まあ、ムリな事を言うわけじゃないし、やさしいからハイハイ言ってればいいんだけど・・・」
口ごたえを許さないという事は、じいちゃんの行動を修正する事も出来ないということだ。カレーには必ずインスタントコーヒーをかけ、スプーンをコップ水につけてから食う。銘柄はジャワカレー辛口のみ。納豆にはハチミツ。
いわゆる「我が家のしきたり」で、この程度ならどの家にもある事だ。僕も田舎にいるときは、便所は民家でも男用と女用に分かれているのが当然だと思っていた為、下宿を捜すときにえらくとまどった。どの部屋にも女用のトイレしかないから。
「じいちゃんさぁ、なんだろ、間違いが多いのよ。読み間違いとか。最近気づいたのは・・・」
と彼女が挙げた例なのだが、その家のじいちゃんは、”渋滞”を”シッタイ”と読む。
お盆のニュースを見て「帰省ラッシュか。東名高速は35キロの大シッタイだそうだ」などと厳格に言う。
恐ろしい規模の失態だ、このジジイにかかっては。
車を運転して込んでいれば「なんだこのシッタイは!」と憤り、「今日はシッタイに捕まらなかったな」と満足げに語る。うっかり意味が通ってしまう為か、誰も訂正しない。さらに息子である夫まで「みんなで一斉に動けばいいのに、何でシッタイって起こるんだろうね」などと、つぶらな瞳を向けてくる。
彼女は訂正しない。口ごたえ無しが鉄の掟なのだから仕方ない。
そして、渋滞をシッタイと読み続けて幾十年。何の不自由もなく生きれる世間の狭さに思いを馳せるのであった。