旅行という名の

水を売り歩く少年

旅行者に対して「なんで?」は禁句だ。
バングラデシュに行く」という僕に、無数の「なんで?」や「なにしに?」が投げかけられた。その都度「ただ行きたいだけです」と答えると、ちょっとだけ考えたあと「でも、何故?」と再び問いかけられる。
僕に理由や目的など無いのである。敢えて言うなら、バングラデシュという所に行ってみる事が目的。だから、着いてちょっと街中を回っただけで、目的は達成されてしまう。その時点で僕は充足してしまい、著しくやる気が無くなってくる。つまり、ヒマになる。日本に帰りたくなる。日本はいい。プリンが食える。
特に観光名所(そんなものは無かったが)に行くでもなく、昼過ぎに起き出して、街を歩いたりその辺のオッサンと話したり。たまに長距離バスに乗って別の街に。また昼に起きて、牛を追っかけたりストリートチルドレンにお菓子をあげてみたり。ただただ、日本に帰るのを楽しみに過ごす。苦行に近い。だって、楽しくないもの。帰ってきてそう言うと、また「なんで行ったの?」なんて言われる。だから、「ただ行きたかっただけ」。
旅行者に「なんで?」なんて目的を執拗に求めると、目的無く動く自分、目的無い人生、それを選んできた過去を振り返ってしまい、落ち込んでしまう。旅行者は「目的」の無い行動をついつい選んでしまうものなのだ。
なんの予定も持たない自由旅行。その空の下ではせいぜい明日の予定しか考えなくて良い。
日本にいたらどうだろう?日本は人生と密着し、明日の予定、一ヶ月後の予定、計画、一年後の目標、そう、常に人生の目的を心のどこかに置いて生きている。
自由旅行は、そんな人生から目的をざっくり切り落とす。目的を考えなくて良い時間を与えてくれる。今、目の前にいる牛を追っかける、今日の晩飯にいいレストランを捜す。そんな近視眼的な考えだけの時間を与えてくれる。
つまり、子どもなのだ。
子どもが人生の目的を考えてサッカーをするだろうか。そこにある、サッカーボールを追いかけるだけである。ひたすら無意味に遊び、かくれんぼをし、服を汚し、ネコを拾い、飼えもしない数のセミを捕獲する。
「なんで、かくれんぼなんかするの?」と、あなたは問うだろうか。
旅行者が「なんで?」と問われる時、どこか自分の幼児性を指摘されたようで、逃避を見透かされたようで、こそばゆさを感じてしまう。できれば、「なんで?」と問わずにいて欲しい。