webで日記を書くということ

僕は毎週欠かさず週刊SPA!を購読しているのだが、今週号に「下流階級ニュープアの研究」と題された特集が組まれていた。
ニュープア」という単語をご存じの方は少ないと思う。なぜなら、SPA!が勝手に作った単語だからだ。SPA!は何かにつけ、新しい単語を作るのが好きだ。そしてことごとく浸透しないという得難い技を持っている。例えば毎号のように使われる「SPA!世代」という単語。これはSPA!がターゲットとしている団塊ジュニア世代(30代前半)らしく、幾十年と紙面で使ってきているが「SPA!世代」という単語が日常会話に出てきた事がおありだろうか?
また、クラブに通い詰め、踊り、感性とセンスを第一に考えたアホな若者を「クラバカ」と名付けたが定着せず、倉田真由美は「だめんず・うぉ〜か〜」という漫画を連載していてそれなりに売れているが、ついぞ「だめんず・うぉ〜か〜」という単語が流行る事は無かった。「アダルト・チルドレン」が常識となり「だめんず・うぉ〜か〜」が一瞥すらもらえない状況。この辺にSPA!がいま立たされている位置があぶり出されており、そんなSPA!のノーコンピッチャーぶりが僕は大好きだ。
前置きが長くなったが、ニュープアである。
SPA!の定義では、ニュープアとは「三度のメシは食べられても、生活レベルは中級以下。最下層予備軍」となっており、まさに僕に合致する条件。さらに、「自分らしく生きるという事を、努力したくない、イヤな事をしたくないという気持ちのすり替えとして使っている」という特徴があるらしい。
つまり、ひたすら無意味に過ごしている現状を「自分らしい」という、一見成り立ちそうな意味づけを行う事によって自我を保っているという事だ。どうにか人生に意味を与えようともがいているのである。
人間は自分の行動に意味や意義が無いと、根本的に耐えられない。
地獄絵図にある賽の河原では、石を積み山を作るが、完成する寸前に鬼がやってきて蹴り崩す。また一から積み直し、鬼に崩されるという繰り返し。無意味の連続。これが根源的な地獄として描かれている。
どこか地獄にいるような感じ、十代後半や二十代前半ってそんな気持ちで生きていたように思う。何者でも無い自分、何者になれるか分からない自分。いま自分がしてる事に意味があるのか。夢の実現に向かう最短ルートを歩んでいるのか。まさに暗中模索、無意味の恐怖と闘っていた。
宗教なんて、まさに人生に意味を与える最強アイテムと言えるし、僕が手にしたアイテムは「書く」という事だったと今にしてみれば思う。
僕は大学で脚本創作を学んでいたので、日常的に「書く」という状況下で暮らしていた。「○○は芸の肥やし」なんて噺家は言うが、こと「書く」という行動にもそれは当てはまる。ただひたすら怠惰にゴロゴロしていて、夜になってその無意味な一日を後悔しても、「この焼け付く後悔の経験が作品に繋がる!」なんて、無意味の恐怖をねじ伏せていた。また、暇にまかせて「ペヤングのぺって、なんだろう?」などという酔狂な疑問を製造販売元のまるか食品に問い合わせるのも「書く」という意義があればこその行動だ。その行動が、端から見たら無意味としか見えなくても。
web日記(ブログ)をつけるようになると、日常生活からネタを捜すようになるから、いろんなものに敏感になり日常が意義深くなる、という意見を良く耳にする。しかし見方を変えれば、どだい無意味な生活に「書く」という意義付けをしただけで、依然として無意味なままだったりする。
こうやって行動にまんべんなく意味を与えるという点ではweb日記作成は宗教的であるし、人生において万能的な有意義を提供するセラピーだとも言える。
僕がチクチク飽きもせず細々このHPを続けているのは、つまりはそういう事なのだと思う。