ラン・ローラ・ラン

昨日wowowでやっていた『ラン・ローラ・ラン』をビデオに録ってありましたんで、それを鑑賞しました。
有り体に言えば、おつきあいしている人の為に、金を工面しようとローラという女性がランするという映画なわけです。ローラがまた、いかにも走りそうな、屈強な女の人だったりします(ドイツ人)。

というのがアウトラインなんですが、この映画は「ローラもしもこの時こうしたら…」というパターンを3種類用意して、それによってローラや関わり合った人の未来が激変するという趣向です。
良くある、「If もしも」系なお話ですね。

形態的には、グウィネス・パルトロウ主演の『スライディング・ドア』みたいなものです。「地下鉄が発車する寸前のドアに飛び込めたか、飛び込めなかったか」で運命が変わるという。
だから、この映画は1本で2種類のお話を楽しめるわけで、2個ほど禁じ手を使っていましたが、なかなか面白い映画でした。

同様に、『ラン・ローラ・ラン』も僕は楽しく観たんですが、見終わったあとで、なんともブルーな気分になってしまいました。
というのは、この2本とも、不幸を生む映画なのです。

テスト前なんかに、「朝早く起きて勉強しよう」なんつって目覚ましを掛けて、しっかり寝坊し、「アアッ!寝る前に勉強しておけばっ!」と慚愧に耐えない経験をしたことは誰にでもあると思います。
こんな一時的なものならともかく、最近僕は「ウオオッ!なんちゅう無為無策な大学生活を過ごしていたのだッ!もっと有効に使っていれば、こんな男に成り果てていなかったものをッ!」と毎日悔い改める日々を送っています。
そんな僕は、不幸です。

では、この不幸の源泉はどこにあるかというと、僕が怠けたことにあるのではなく、「こうすれば、こうなったはず」という妄想にあると思うわけです。
「あのとき、ローラがこっちに走れば、こんなにいいことが!」「あのとき、パルトロウが地下鉄に乗れれば!」「僕が一糸乱れぬ見事この上ない大学生活を送っていたら!」

そんな事はあり得ないわけです。
あのとき、それが「出来なかった」から今の僕があるわけです。けして、「出来たのに、しなかった」訳ではありません。
「出来なかった」のです(ここ、大事)。

その、出来なかったことを想定して、あたかも人生が二つに別れるような幻想を振りまく映画。それが『ラン・ローラ・ラン』と『スライディング・ドア』。
それは、耐え難い後悔と不幸を産み落とします。
あり得ない出来事を僕たちの前に出現させ、無意味な理想像を提示します。

今の僕の有り様は必然の中にあるわけでして、ただ可能なのは、過去から学ぶことだけです。
無いはずの「理想像」を意識してしまったら、たちまち不幸になります。

だから、今僕がこんなヘタレなのは僕のせいではありません。いわゆる運命です。

逆に言えば、こんな健康的な生き方を、ローラとパルトロウから処方されました。