バベットの晩餐会

バベットの晩餐会(1987年デンマーク)を観た。
ちなみに、僕の中の2004年上半期暫定ベスト1はこの映画である。
19世紀の後半、デンマーク鄙びた漁村に牧師が開いた小さな教会があった。
牧師には美しい娘が二人いて、彼らを中心に、村人達は非常に敬虔で質素な生活を営んでいた。
時は流れ、牧師は亡くなり、恋や悩みを経て娘達が年を取っても、その生活は何一つ変わらない。
粥には塩もかけず、一杯のコーヒーを神の恵みとする毎日。
そんな姉妹の教会に、フランス革命を逃れたバベットという婦人がやってくる。
バベットは家政婦として10年以上の歳月を過ごしたのだが、ある年の牧師生誕記念日に、本格フランス流のディナーを村人に振る舞うことを申し出る。
ディナーの材料として運び込まれる生きたウミガメやウズラ、ブタの頭やワインの数々に、村人達は「災いを運んでくる」と不安におののいて・・・。
といったストーリーである。監督がフランス人なので、いわゆるフランス映画な感じの時間が流れている作品になっている。

僕もそうだし、人間はしばしば「生まれ変わったつもりで」とか「過去のことはすっかり忘れて」と言い、未来への心がけとする。
でも、心の底では、そんな言葉は詭弁であることを知っていて、「自分を騙して」いることからは、意識的に目をそらしている。
その「過去」とは、自分の過ちであり、人を騙したり、嘘をついたり、裏切ったり・・・といった「忘れたい過去」だと言える。
詭弁と欺瞞に満ちあふれた過去を、「忘れて」と、また詭弁を弄して誤魔化そうというのである。
どうあれ自分の過去を肯定する事が出来ないから、単に言い逃れをしているだけなのだ。

そもそも、未来というものは、いうまでも無く「過去」の上にしか成り立たない。
時間は逃げても追ってくるというが、その時間の正体は、自分の過去であり、どだい逃げ切れるものではない。
この村の敬虔な牧師は、過去の行いを非常に重要視する。
そんな牧師に導かれた村人達でも、つい過去の欺瞞を人のせいにし、誤魔化し、言い逃れようとする。
自分の歩んで来た人生に迷い、後悔してしまうから、未来への希望を失ってしまう。
そんな時に開催されたのが、バベットの晩餐会である。
フランスのパリから寒村に逃れ、10余年の家政婦生活の中においても、自分の人生である「フランス料理」を信じ、その力を信じて来た。
力強く生き抜いてきたバベットの料理は、人々に「私の人生は正しかった」と信じさせる力を宿しているのである。
晩餐会が終わっても、それぞれにまた敬虔で質素な人生が続いていく。
それを見た僕たちは、すばらしい人生があった、ある、あるだろう、これからもずっと、という、過去から未来へと続く人生を再認識するのではないだろうか。