ビッグ・フィッシュ

「お前のためを思って」と言う人がいる。
こういう場合、その言葉の真実はほぼ10割「詭弁」である。「エゴ」と言い換えてもいい。
でも、自分の親に「お前のためを思って」と言われたらどうだろう。
7割は「親のエゴ」なのかもしれないが、残り3割は「愛」かもしれない。
子供にとってこの言葉のどこがイヤかって、「エゴ」ではなく残り3割の「愛」の部分ではないだろうか。
反抗期として知られるように、親の「愛情」に反発するのは成長の一段階である。
映画「ビッグ・フィッシュ」(2003米/監督:ティム・バートン)に出てくる父親(アルバート・フィニー)は、自分の昔話を徹底したフィクションをもって語る人物だ。そして、そのファンタジーが10割の「愛情」を材料としているから、子供にとってはタチが悪い。
一人息子(ビリー・クラダップ)は「お父さんは、真実を何一つ話さない」と、執拗に語られる父親のホラ話を嫌い、その根底に流れる「愛」にうっすらと気づいているからこそ、父親そのものにも反発してしまう。
しかし、そのホラ話の中にある真実に気づきはじめ、ファンタジーに流れる「愛情」を真正面から見据えようとする中で、息子の心がどう動いていくのか・・・と、そんなあらすじ。
その人生を閉じる瞬間までファンタジーを語り続ける、それがどういうことなのか。そんなティム・バートン監督が一貫して行ってきた創作活動へのひとつの総括とも受け取れる作品。
事実の中に必ずしも真実があるわけでもなく、むしろファンタジーが語り継がれる真実を有していたりする。
目を凝らして見なければ見つからないけれど、作られたファンタジーの中には、その人が語りたい事が詰まっている。
それが魅力的なファンタジーならなおさらだし、そこで見いだされた真実は、語り継がれる中で永遠の命を持っていく事になる。
自分のファンタジーを語りつづけ、語り尽くし、受け入れられる。それはこれほどまでに幸福な事だったのだ。
誰だって、生きてきた中で語りたい物語があるだろう。
それこそ自分の父親。腰を据え、心を安らかにさせ、環境を整え、呼吸を落ち着けて耳をすましてみれば、オヤジが真実を語り出す。
こころの底を掘り出し、真実と思いを結合した瞬間、オヤジから詩があふれ出すかもしれない。
またひとつ永遠が生まれる瞬間である。

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ちなみに、本作内で「事実と面白いフィクション、オレなら面白いフィクションを選ぶね」なんて主旨のセリフがあった。
ちょっと印象に残った。そうだよね、と。
また、マット・デイモンロビン・ウィリアムスが出てた「グッド・ウィル・ハンティング」の中では、「話は一人称で話したほうが面白い」というセリフがあり、これも「そうだよね」と思った。どうでもいいか。