妻と私 (江藤淳)

江藤淳さんの「妻と私」を、今更ながら読んだ。
慶子夫人に下った、末期ガンという診断。その傍らに付いて離れぬ看病をする江藤。妻の臨終から、江藤本人も病魔に蝕まれ、自殺という出来事に運ばれていく。その遺書には「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」とあり、名文として当時の新聞見出しになった事をおぼえている。
ただ、ほんとうに、僕にはわからない。この遺書は、なにを言っているのか、もしくは、何も言っていないのか。
遺書中にある「形骸」という一単語が強烈な存在感を放ち、故に、その単語の持つ空虚が強調されて、まったく虚ろな、無意味な文章に見えてしまう。はじめから、意味を放棄しているかのようだ。「空虚な自分が下した尊重すべき決断」と、どこか矛盾を孕んだその言葉は、まさに生と死を言語化することを放棄し、ただただ、すべては「空」であると言っているかのようだ。自分は「空」であるが故、諒とされよ。稀代の評論家にして、小説家を越える物語を編んだ彼が、論理的な矛盾を越えて言語化し得なかった「空」という意識。いったい、江藤淳は何を見ていたのか。
彼の目線を考えながら、僕たちは、虚ろなままで生きていく。