-オナッセイ大賞受賞- 闇夜で雪は

「ルールル、ルルル、ルールル♪」というおなじみのオープニングで徹子の部屋が始まった。
今日のゲストは隠慶とかいう禅宗の坊主で、どういうわけかオナニーについての説法をしてやがる。
「あのね、オナニーをアダルトビデオを見ながらするってのはね、最悪なんですわ」
徹子は乗り出すでもなく、さりとて顔をしかめるでもなく、まるでニュートラルな表情を保ったまま受け答えをする。
「えー、でも、あれですの、多くの人はそういうのを見ながらするものじゃございませんの?」
「それがあかんのですわ。眼、というのはね、感覚器の中で一番曇っとる。曇ったまま外界の情報、この場合はエロビですわな、それを感受し、まやかしの愛にすり換えて射精しよる。仏法ではね、こういう愛を執着と言ってですな、真の愛と区別しとるんですわ」
「そうおっしゃいますが、殿方が、オナニーをするときは、何を見てすればいいのかしら?」
徹子はすらりと、気負い無くオナニーと発音した。
「見るようで、見ない。見ないようで、見る。半眼ですわな。世界全体をフラットに、ぼんやりと見るんですわ。けして特定のものを見たり、想像したりしてはいけませんな。それは執着であり、愛ではない。真のオナニーではない」
番組の最後の方で、隠慶師は「真のオナニーをしたければ、いつでもウチの寺に来られれば良い。あなたのオナニーは、どんな執着に捕らわれておるか、聞いて進ぜる」と、呵々と笑って言った。

隠慶師の寺は奈良の山中にある。その伽藍堂に、俺は座っている。真冬の床板は容赦なく体を冷やし、震えを抑えきれなくなった頃、引き戸を開けて隠慶師が現れた。
正面に座した師は、やんわりとした笑みを俺に向けるが、話しかけるそぶりが無い。俺はしばらく緊張して師を眺めていたが、その笑みにだんだんと心がほぐれてくる。
俺は決意した。この師ならば、俺の苦悩を分かってくれる。解決してくれる。
俺は、絞り出すように、言った。
「オナニーで射精する時、必ず児玉清が出てくるんですっ!」

しばしの静寂のあと、師は問うた。
「それは、アタック25の児玉清か。パネルの」
そう、日曜午後の顔、パネルクイズの児玉清である。物心つき、オナニーを覚えてからというもの、そのフィニッシュには、なぜか必ず児玉清が思い浮かぶ。
まさに長寿番組アタック25。俺のオナニーでも連続オンエアをとぎれる事無く更新中。なぜだ、なぜそこまでして、児玉清よ。
「お前さんはいま、”なぜ児玉清?”と、考えていたであろう。いつも考えてるようにな」
心を見透かされた俺は、言葉を失った。
「あのな、お前さん、児玉清をイメージだと思っておるな。違うんやな、それは。イメージってのはな、右脳やろ。
その逆で、言語機能は左脳や。で、”なぜ児玉清?”なんていう発想な、これはオナニーを左脳で考えとるからや。言語は悟りにおいて一番邪魔なものや。
ええか。言語でものを考えてオナニーしてはダメや。それが、真のオナニーへの第一歩やな」

その日から、俺の修行が始まった。
まだ暗いうちに起床し、小雪が舞う中、庭先の掃除や伽藍堂の雑巾がけをこなす。
軽い朝食のあと、いよいよ本格的なオナニーの時間だ。
まず、壁に向かって座らせられる。視界は木の壁で満たされ、他に何も見えない。
師曰く、「ええか、眼の焦点を合わせたらあかんで。ぼんやり、半眼や。見るともなく、や。そうせんとな、壁の木目がだんだんいろんなものに見えてくるからな。それではあかん」
俺は頭の中を空白にするよう努力し、無を念じながら、厳かにペニスをしごき始めた。驚いた事に、エロビデオを見てするより、遙かに固くいきり勃っているではないか。
視界には壁しかなく、後ろで見守っているはずの師の存在すら忘れ、一心不乱にシコシコ、シコシコとしごく。ペニスが充血し、いよいよとなってくる。
快感が高まる。
その瞬間、師が俺の耳元でささやいた。

「アタック、チャ〜〜ンス」

パネルが一斉に変わるがごとく、何の意味も持たなかったはずの木目が、いきなり児玉清の顔に見えてくる。そして、射精。
またもや、またもやオンエア、児玉清。目指せパリ・モンサンミッシェルへの旅。
「あかんなー。いま、連想したやろ。連想ってな、まさに言語機能や。禅ではな、これを最もバカにするんや」

この寺では、オナニーは一日一回。午後からは、ひたすらに座禅をして過ごす事となる。
いつも通り質素な夕食を食べたあと、もよおしたので厠に入って腰を沈めると、壁を隔てた隣の厠から女の声が聞こえてくる。
イカスミ、イカスミ、イカスミ・・・・」
疲れからか頭がぼんやりとしていた俺は、思わず声に出して復唱してしまった。「イカスミ・・・イカスミ・・・」。
「ぎゃー!」という、恥ずかしさの混じった声が聞こえたあと、「すみません、ひとりごとですんで・・・」と、上品な声が返ってきた。
聞けば、この寺には女性の部も存在し、そこでもオナニーの訓練をしているのだそう。当然男女は隔離されていて、接触する事は基本的には無い。
唯一の例外は、2週間後の大晦日、除夜の鐘突の時だけだ。
彼女は雪子と自分を紹介し、オナニーの修行をしていると屈託無く語った。
「わたしは、イク瞬間に、”イカ”が出てくるんです・・・」と、その苦悩を告白してくれた。
「それでイカスミとつぶやいてたんですか」
「はい。カレとのセックスの時もそうで、必死に動くカレのちんこが、イカに思えてくるんです。形も匂いも。師に相談したら、”セックスはオナニーの延長や。
だから、千里の道もオナニーからや”っていうもので」

その日以来、俺と雪子さんは、同じ時間に厠に来ては、オナニーを壁越しに報告しあうようになった。
俺の方はといえば、相変わらず児玉清は絶好調で、「16番に青が飛び込んだっ!」などと、エキサイトする始末だ。
余談だが、アタック25には、クイズ番組にありがちな「ピンポン!」とか「ブ〜!」という効果音は無く、それらは全て児玉清の「その通り!」及び「ダメッ!」等の声で代用されている。これは午後の座禅で児玉清を集中的に考えた時に気づいた事だ。
この辺にも、類を見ない児玉清の存在感が伺われる。

かたや雪子さんは、師の耳元ささやき攻撃を”溶かす”術を身につけつつあるようで、だんだんとイカの呪縛から解き放たれつつあった。雪子さんは言う。
「広告のコピーかな、コンドームの。”愛しているなら0.01mm離れて”ってのあったじゃないですか。でも、離れられなかったんです、少しも。
なんか、0.01mmでも離れているのが耐えられなくて。でも、ここにきて何となく分かり始めましたよ。世界を半眼でぼんやりと見れば、ものの境界線なんて見えないです。触れているか触れていないかなんて、全然関係なかった。想いがひとつとなっているかなんです、重要なのは。そうなってないから、想いが無いから、左脳で考えて、イカスミなんて発想が出てくるんだよね」

俺はうらやましいとしか言えなかった。
そして、まだ顔も見た事も無い雪子さんの素直さに惹かれつつある自分に気づいていた。
雪子さんは、すこし間をとって、続ける。
「今、壁を隔てて話しているけど・・・ひとつになってるって、感じてますよ」
この人にも心を見透かされた、と思った。禅的な目線を持つと、こうも人の心を見透かす事ができるのだろうか。

オナニーの修行は、日々続いた。師はどうやら児玉清のモノまねに凝ってしまったらしく、「ああ残念!赤の人は立ってしまわれたっ!」と当意即妙なささやきを繰り出したりした。

その日の夜、師のモノまねを雪子さんに報告すると、あははと笑い、「その通り!とか、最近なんだか気合いが入ってるなあと思ってました」と言った。
「俺の修行は、まだまだですよ、ほんとに」とつぶやくと、雪子さんは少し押し黙ったあと「わたし、明後日の大晦日に、ここを出ます」と、感情が無いような口調で言った。
師から「お前はもう大丈夫」とお墨付きをもらったらしく、確かにイカの呪縛からは解き放たれたとの事。
「本当に、すごいんです。光の中でイクっていうか・・・ものすごい快感だったんですよ、今日のオナニー。それを見て、師は”もういいだろ”って」
俺は、お祝いの言葉をかける事すら出来ないでいた。わき上がってくる切ない気持ち、抑えねばならない理性、それだけで手一杯だったのだ。
察してか、雪子さんは、「明後日の大晦日、ぜひお会いしてお礼を言いたいんですよ、帰ってしまう前に・・・」
俺は逡巡した。会って、この想いを、言葉にしたい。でも、今この状況で、想いは伝わっている。それをさらに言葉で規定するというのは、禅的修行に反してしまう。
「いや、やめておきますよ。壁を隔てて想いをひとつにしたままで、別れます。ありがとう」
そう言うのが精一杯だった。雪子さんからの返事は、声が小さすぎて聞こえなかった。

次の日、厠に雪子さんは来なかった。

晦日
境内に出てみると、あたりは昨晩降った雪で、白く染まっていた。暗闇の中から浮き上がるような白さが、辺りを神秘的に照らし出していた。
かがり火の横では、男根を模した除夜の鐘を、女修行者が数人でキャッキャと言いながら突いている。
俺は高台の石段に腰を下ろし、一年で一番活気があるだろう今を、薄らぼんやりと俯瞰していた。
頭の中には、雪子さんがいる。顔も見た事も無ければ、姿形も分からない。ぼんやりとして空気に溶け込むような、心地よいイメージが心を満たしている。
すると、遠くの道から異質な光がやってくるのに気づいた。車のヘッドライトだ。電気の無いこの寺で、その光は、まさに異彩を放っている。
車は山門の前に停まった。誰かを迎えに来たようだ。その近くに座っていた和服の女性が、ゆっくりと立ち上がり、車に向かって歩くのが見える。
振り返らない。そんなそぶりもない。俺はもはや確信していた。彼女が、雪子さんだ。
言葉をかけない、会わない、そう決意したはずだったが、彼女の後ろ姿を見て、もはや愛と衝動を抑える事は出来なかった。
ただ、俺の存在を知ってもらいたい。見てもらいたい。難しい言葉はいらなかった。

俺は立ち上がり、渾身の力をもって「イカスミ!イカスミ!」と叫んだ。
その瞬間、除夜の鐘がひときわ大きく鳴り響き、辺り一面を包む。
雪子さんは振り返らない。

俺の叫びは、煩悩をなくす鐘にの音に飲み込まれ、闇の中へと消えてしまった。

オナッセイ大賞を受賞

昨晩は新宿ゴールデン街でしこたま飲んだくれ、隣に座ったオッサンのギターで「赤いスイートピー」を熱唱し、深夜帰宅でようやく昼過ぎに起きたのだが、見るとカウンターがやたらと回っている。いつもは死海の水面のごとく微動だにしないメールフォームもコリコリ動いたらしく、何通か頂いたメールで「オナッセイ大賞」が発表となった事を知った。
説明させて頂くと、テキストサイト界の巨頭であるNumeriのpatoさんが「オナッセイ大賞」という公募を開催された。主旨は「美しいオナニーエッセイ」、つまりは「オナッセイ」という事で、ロマンス溢れるオナニー話が良いのだなと勝手な解釈、bjorkなんかを聴きながら書いてたら心は暗く沈み込み、曲中に響くチャペルの鐘が除夜の鐘に聞えてくるというなかなかに得難い心理状況。で、どうにか書き上げて応募したというわけです。(→応募作品はこの記事のすぐ下に掲載
190程の応募作品から9作品を審査員の方々が選抜し、一般投票にて大賞作品の決定という事で、最終投票の9作品に残ったのも驚愕だったのですが、よもや大賞に選ばれるとは。こはいかに、である。いや、ほんとに。投票所はコチラ→「オナッセイ大賞
投票が締め切られ、トップ確定となった瞬間の感想としては、まさに「いいのか僕で」。ビル・ゲイツのパーティーにうっかり入り込んでしまった田中義剛、隅っこで笑顔を絶やさず、いるわけもない松本明子あたりを捜してしまう、そんな心境。
とはいえ、うれしいのもこれまた事実。やはり、うれしい。「チャンピオンです!」と松本明子に言われたい。「あなたにとって、オナッセイとは?」みたいな質問を受けたりして。
とにかく、patoさんはじめ審査員の方々、投票をして頂いた方々、応募された方々、すべてに感謝をお伝えしたい思いです。ありがとうございました。
大賞受賞のうれしさはかようにも格別、さらに僕がうれしかったというか感動を覚えたのは、投票時にコメントを下さった188人もの方々。家宝にさせて頂きます。勢い余って全てのコメントに返信をしたい意気込みです。書いて頂いたコメントをそのままコピペ、メールフォームから送って頂ければ、容赦のない返信メールを発射します。雑念を捨てて発射します。
さて、オナッセイ大賞に応募した理由のひとつとなったのですが、その主旨の中でpatoさんは「ただオナニーが気楽に語られる、そんな世界にしたいだけだった。」と語られてますが、なかなかに示唆に富んでいるなあと指でアゴを挟んで唸った。
オナニーというのは、基本的には秘め事である。とくに公共の場においては禁忌の域にあると言ってもいい。「オナニー」という一言を出しただけで一変する空気。飯島愛のAV出演くらいのタブー。それを人は「失言」という。
メディアでも世間でも、失言に対する風当たりは強い。一昔前までは失言で失脚する政治家は続出、そうなると人は下衆なもので、潮干狩りのように嬉々として人の失言を捜して掘り返す。
しかしながら、失言の中身は事実として存在するのを知っている。乞食はいるし、エイズは蔓延。オナニーは口に出すのも憚られ、ロリコンはもはや人にあらずの扱い。が、事実として存在する。ロリコンもオナニーも。
けして無くならないし、言葉狩りをして表に出さぬようにし、存在しないように扱っても、あるものはある。でも、人を傷つけたり不快にしたりするし、謹んで、出来れば言わぬようにして、忘れたふりをして。現代社会はコミュニケーションが大事だから。人脈こそ財産、人脈万歳。
そろいもそろってセーフ・セックス、セーフ・コミュニケーション。デオドラント化されていく社会。でも、それは”殺菌消毒”ではあるまいか。
どこか平面化して均質化する社会。アメリカから輸入されたプラスチックな社会。そこに唐突に咲く妖艶な花びら「赤いスイートピー」。そんなオナッセイ。一度、スイートピーを見つめてみるといい。淫猥で魅力的な花だ。

夢の中へ夢の中へ

二ヶ月ほど前に、ぎっしりと"思いつき"を書き込んだ手帳を紛失してしまった。
本棚にしまった事は覚えているのだが、文庫本と全く同サイズである上、この間の地震で本が崩れ落ちた事などもあり、完全に見失ってしまった。
さらに崩れ落ちた本がキーボードを直撃し、「I」が壊れてしまった。「I」は相当使う。かなりの主要メンバーだ。「I」が打てないと、あの娘に「愛してる」って言えない。おかしい。おかしくなっているだろう、頭が。
とまあこんな感じで、最近ここの更新が滞っているというか、かようにも頭が機能していない為、今日という今日は是が非でも手帳を発掘し、そこに書かれているであろう良質なネタを使って文を書こうと鬼の意気込み、マッマッなどと声とも息ともつかぬ音を発しながら本棚をひっくり返し、ついぞ赤い手帳を発見して開いてみた。
日々の記録や予定、その欄の一発目、元旦のメモ。
「言わなくてもいい事を、コト細かに語るオレ」
あんまりにもそのまま過ぎて、これ以上文章に加工出来ない。反論の余地もない。
自分そのままという素材で勝負しよう、そんな元旦だったのだな。その意気や良しだ。オレ。
しかしながら、素材で勝負する人というのは基本的に語らない。テレビを見ていると良く分かるが、たいがい長い語りは面白くないものだ。またロンドンハーツの話で恐縮だが、格付けしあう女達の国生さゆりは語りが長い。その上、必死。言わなくていい微妙な恋愛体験、それも暴露という程でもない、ほのめかし程度。国生のほのめかしってのも、テレビ的には360度微妙。プール上がりに耳の奥に水がある気がする、そんな得体の知れない不快感を覚えるのは僕だけだろうか。国生さゆりが自らの波乱の恋愛を語れば語る程、必死に語らざるを得ない構造、国生が置かれている現状に思いを馳せてしまう。
そんなつらさから目をそらし、国生の後ろ、画面奥の暗がりに見える山口もえの膝小僧に注目する始末だ。
どうだろう、言わなくてもいい事を語った日記になったであろうか。

娘の婚礼、牛5頭

お盆という事で、新潟に帰郷していました。
見渡す限りの越後平野を地平線まで連なる田んぼ、母校の小学校は全校70人。隣家は牛を飼い、軒先に山と積まれた枝豆。これがまたたいそううまい。黒崎茶豆。
とまあ一言でいうとド田舎なのだが、ド田舎の家って鉄の掟が多く「お盆に帰る」ってのもそのひとつだから、万難を排して帰省せねばならない。だって、鉄の掟だから仕方ない。
こういう風に物事がかっちり決まっていてほとんど変化が無かったり、それが問題なく通用する狭い世間で過ごすってのは田舎の利点であり難点でもあるんだけど、僕はかなり窮屈さを感じてしまったので東京に出てきている。
十年一日たるその利点を懐かしみ、一度出た都会から戻ってくる友人も多く、むしろ戻らず頑張る僕の方が少数派だ。
高校の頃におつきあいをしていた彼女も、東京に出て音楽や芸術を学んだ後、やはり新潟に帰って農家の嫁となった。
この夏に会ったときには二児の母となっており、乳が出て仕方か無いという。ペチャなりに出るのだそうだ。
農家の嫁、まして子育て中ともなると、その世間はかなり狭い。移動はほぼ家の敷地内、話す相手は夫の親と近所のジジババ。
「ほんと、テレビで見るアフリカの原住民と変わらないよ。自分の見える範囲しか世間がないんだもの」と言う。
その家の掟では、米を炊くのが嫁の仕事。姑はおかずとみそ汁を作る。彼女は料理を最も苦手としている上、ピアノをやっていたクセにいたく不器用な為、米をうまくとぐ事が出来ない。
「最近は考えてさ、五合炊く時はね、六合でとぐのよ。一合分流れるから」などと米作農家の嫁らしからぬ放言。
また、家長であるじいちゃんは昔気質の厳格さを保っているらしく、口ごたえを許さない。
「まあ、ムリな事を言うわけじゃないし、やさしいからハイハイ言ってればいいんだけど・・・」
口ごたえを許さないという事は、じいちゃんの行動を修正する事も出来ないということだ。カレーには必ずインスタントコーヒーをかけ、スプーンをコップ水につけてから食う。銘柄はジャワカレー辛口のみ。納豆にはハチミツ。
いわゆる「我が家のしきたり」で、この程度ならどの家にもある事だ。僕も田舎にいるときは、便所は民家でも男用と女用に分かれているのが当然だと思っていた為、下宿を捜すときにえらくとまどった。どの部屋にも女用のトイレしかないから。
「じいちゃんさぁ、なんだろ、間違いが多いのよ。読み間違いとか。最近気づいたのは・・・」
と彼女が挙げた例なのだが、その家のじいちゃんは、”渋滞”を”シッタイ”と読む。
お盆のニュースを見て「帰省ラッシュか。東名高速は35キロの大シッタイだそうだ」などと厳格に言う。
恐ろしい規模の失態だ、このジジイにかかっては。
車を運転して込んでいれば「なんだこのシッタイは!」と憤り、「今日はシッタイに捕まらなかったな」と満足げに語る。うっかり意味が通ってしまう為か、誰も訂正しない。さらに息子である夫まで「みんなで一斉に動けばいいのに、何でシッタイって起こるんだろうね」などと、つぶらな瞳を向けてくる。
彼女は訂正しない。口ごたえ無しが鉄の掟なのだから仕方ない。
そして、渋滞をシッタイと読み続けて幾十年。何の不自由もなく生きれる世間の狭さに思いを馳せるのであった。

水に流して

明日からお盆休みなので、故郷である新潟県燕市に帰ります。東京に戻ってくるのは、15日の予定。
燕市と聞いて連想するのは、社会の教科書に載っていた洋食器の産地である事とか、もしかしたら「あれ?燕三条市じゃなかったっけ?」などという不届きな人もいるかも知れない。
確かに全国的には燕三条市で通っているし、現に合併の話も持ち上がって住民投票まで行われたのだが、大差で否決となってしまった。
その理由はただひとつ、両市の仲は致命的に悪い。
今は昔の話、田中角栄の影響力が強き頃、新幹線の駅が出来ることとなった。建設立地をかけて燕市三条市は壮絶な誘致合戦を繰り広げ、紛糾の末に両市の境界線をまたいで建築するという玉虫色の決着に落ち着いた。
が、ケンカはそこでは終わらない。
さらに、”燕三条駅”とするか、”三条燕駅”とするかで、またもや大人げないケンカが始まった。これはご存じの通り”燕三条駅”となったのだが、収まらない三条市側は、これまた両市をまたいで作られた高速道路のインターチェンジを”三条燕インター”とする権利を勝ち取った。まあ、痛み分けである。
かようにも、両市のライバル意識は強い。
ここから紹介するのは、燕市原理主義者である、ウチの親父の証言。それをふまえて読んで欲しい。
親父が言うには、「三条市民はケチ」。
ちょうど去年の今頃、三条市中之島の辺りで洪水が起こった事を覚えておられるだろうか。その復旧に親父も尽力したのだが、「いつもなら、あの辺の奴らと商売なんかしない。金が無いフリをして、すっきり支払いをしない」などと言う。「金を隠してるんだ、タンスにな。で、そのタンスが洪水で流されそうになったり流されたり・・・」と、ちょっと含み笑いをする。
親父の発言を裏付けるように、洪水のあと、三条信用金庫の預金高は一気に増えた。隠しタンス預金は危険と考えた住民が、銀行に預けるようにしたのである。洪水被害で預金高は減りそうなものだが、逆に増えたというのは驚異と言わざるを得ない。
対する三条市も、燕市の救援申し出をやんわりと断ったりして、未来永劫仲良しにはなれそうにないのだが、立地的にも両市の経済圏というのは重なっており、実際には二人三脚で発展しようとしている。
これまた両市をまたがる部分にSATYとかシネマコンプレックスなどの商業地帯ができたりして、その地域は”県央”と呼ばれるようになった。単純に、新潟県の真ん中だからだ。
こういう新しい言葉を編み出して、”燕三条”か”三条燕”か論争の再現をさけるところなど、なかなかにいい関係が出来つつあるのかもしれない。
追記:帰ってきたら、燕市にある伝説のラーメン店「杭州飯店」をご紹介したい。全国背脂ラーメンの元祖である。

先に立たないものなのか

僕の欠点は・・・いや、僕にはけっこうな数の欠点がある。中でも一番やっかいだなあと思っているのが、動きが遅いという事だ。
これは、僕が常に一拍置く性格である事と無関係では無いと思う。
一拍置く、つまりは、いちいち立ち止まって考え込んでしまうのだ。何をするにも、「いや、待てよ」という思考から始まる。よりベターな行動をしようという貧乏性、さらには単純に動くのが面倒という亀のような発想が相まって、とにかく僕の行動を遅くしている。
例えば、携帯メールが来る。たいがいの人はすぐ返信するらしいのだが、僕は「待てよ」で一晩おく。一晩おいたら、発酵するかもしれんとか思って納得する。そして発酵しない。むしろ忘れる。塩漬けに近くなる。
クイックレスポンス、時代はそれを要求していて、「待てよ」で待ってくれる程のんきではない。
さらに今思いついた僕の欠点だが、塩漬けになるまで熟考したあとの行動を後悔する。
思いついてなんだが、改めて考えるとなんという不毛な行動をしているのであろうか。悩んで後悔、悩んで後悔の繰り返しではないか。
最近デジタルカメラを買ったのだが、買ったあとでネットとかの評判を見ていると、なんだか良くない。すると、俄然後悔し始める。ここで更なる発見だが、いきいきと後悔している僕がいる。
そう言えば「ああ、やはりチャーシュー麺にすれば良かった!」とか「買い物に行っておけば良かった!雨は降らなかったのに!」とか考えている僕は、多少の高揚感を感じている。なんだろう、この屈折した考えは。
世にギャンブラーは多いと思うが、彼らは勝ちの味を知りつつも、後悔という珍味も求めているのではあるまいか。嬉々として「スロットで10万すった」とかいう人は良くいる。「ああ、こうしとけば良かった」とつぶやく瞬間、なにか普段とは違った特殊な気持ちになる。おかしな脳内物質が分泌されている気がする。そしてそれは、どこか悦楽をもたらしている。
カカクコムの掲示板や2chでは、僕のようにデジカメの機種選択に後悔している人が沢山いる。こういった情報を一番求めているのは、「これからデジカメを買う人」ではない。その数倍もの、「デジカメをもう買ってしまった人」が押し寄せているのだ。わざわざ、後悔しにやってきているのである。

僕が嘘つきになった日

自爆テロ」というフレーズを好んで使う人がいる。
語感もあんまり好きじゃないのだが、一番気になるのは陳腐さ。ニュースやら活字やらで頻繁に登場する言葉を、そのままなぞっている感じ。この辺が気になるというか、イヤだ。受け止め方としては、気の利かない冗談って感じ。そして、虚ろだということ。

違う理由で「自爆テロ」というフレーズを嫌う人がいて、彼が言う理由は「不謹慎」。
つまりは、人が死に、悲しみ、禍根を残す出来事を、どこか冗談めいて使う事に対して抵抗があるのだそう。
「まじめ」である。なんというか、冗談が通じにくいといったらいいのか。
この考え方を突き詰め、徹底していくと、自爆テロ実行犯のメンタルに近づく気がする。彼らは自分の信心を徹底し、必然的に自己をも犠牲にする。やはり、この部分に関してだけ言えば、真面目であると言えまいか。冗談が通じそうにないと言えまいか。

真面目に、迷い無く宗教に依存しているのである。

依存症、なんて病気が流行っているらしく、アルコール依存症とか、パチンコ依存症とか。宗教にも、依存症の側面はあるだろう。
○○依存症と、○○の部分に何でも入りそうな勢いだ。○○詐欺。これも何でも入りそう。
僕に関して言えば、サプリばかり飲んでいるので、サプリ依存症といった感じ。法律の許す範囲内でのドラッグ中毒者である。
最近やっかいだなと思うのが、人権依存症。何につけても、人権だ。比較的新しい概念である人権は跋扈している。ここ数十年来でもっとも巨大なモンスターとも言える。
他人の人権を守るよう努力する。同時に、自分の人権にも敏感になる。差別を無くそう。いじめを無くそう。でも無くならない。なんでだろう。無くならないから、自分はされたくない。周りを見わたして、注意深いポジショニングで、受け入れられない冗談を言わないように、笑いを絶やさず。
そうやって、人は世間依存症になっていく。